百倍返しだ 「三州一向宗一揆濫觴(大河の始まり)」

視聴率がイマイチ伸びないそうです。

大河ドラマではやはり服部半蔵ありきの脚本で無理やり上之郷城にその人を突っ込んだの感がありました。

忍者=ハットリくんがガチのイメージなのでしょうかね。

 

後世の史料には追記の如くですが服部の名が出てこないワケではないようですが、何度か記しているように定説といえば甲賀衆の活躍。

おしるし程度に甲賀忍者の如くの者を登場させていましたが。

また無理くりといえば展開の中に「笑うところ」を入れるなども多々。

低迷の理由はそこだけではないのでしょうが以前の大河ドラマにその手のコント、コメディの類はありませんでしたからね。

私もよろしい作りとは思いませんし違和感ありあり。

 

これから家康の三大危機の一つと言われる三河一向一揆の「おはなし(ないまぜ)」となるのでしょうがその家康の敵となった一向宗門徒は今も西三河では大勢の衆。

演出次第では一揆が起こりかねないというか・・・まぁスイッチを切るだけですが。

私は今のところ三方ヶ原くらいまでは忍耐、お付き合いしていこうと思っていますが早々に退場させていただくかも。ジジーは視るなという姿勢ならば仕方なし。

 

扨、家康、家康とその名を呼ばわって記してはいますがその改名は永禄六年(1563)ですから上ノ郷城を落としたあと(1562)の事。

本当はそれ以前だと「家康」ではなく「元康」と記さなくてはならないのですが名前を使い分けるのは面倒なものです。

その岡崎の南、「西の郡」(蒲郡)は海運交易の地であるとともに筋金入りの今川一統の要衝だったわけですがそちらを奪取することは、三河統一の端緒となるだけでなく名実ともに今川との手切れが決定的ということでした。

そして家康にとってはその元康の「元」の字はもはや邪魔。

今川義元からのもので是非ともそのしがらみをも返上したかったはずでしょう。

ということで「家康」がその永禄六年から誕生したわけですが、それに驚いたのは昨日ブログの通り久松俊勝であって彼もまたその名を改めることになったのでした。

 

そしてそれからの家康の対応としては駿府の氏真が大軍を率いて三河を蹴散らさんとばかりに襲来することを念頭に置かなくてはなりません。

よって特に各所に要害を築きあるいは既存の城塞を整備して人員と兵糧を確保しなくてはなりません。

その流れで一番に困ることといえば兵糧の件。

三河一帯の戦乱続きで蓄えの余裕はあるはずもなく。

 

そこで「在るところ」から調達しようと短絡に走ったのが通説三河一向一揆の原因でしょうか。

家康を新しき名とした永禄六年のことでした。

 

史料が殆ど残っていないことから推測ということになりますがいつもの「三河後風土記 正説大全」はあいかわらず面白い。

「三州一向宗一揆濫觴」というタイトルが記されていました。

濫觴とは「ものごとの始まり」ですがいわゆる「大河の一滴」の如く。

「觴 (さかずき) を濫 (うか) べるほどの流れから」という意ですね。

 

その「始まり」についても各説あるようですが、その書には特定の人名が記されてその行いが一揆のきっかけだったこと断定的に記されています。

ただしその人の名から十分にその系は推測できるものの、実在について不詳でその信憑性に疑問があるといわれていますが、どう考えても「その事件」からという説は説得力がありますので当事者はあとから名を変えあるいはその話を無かったことにしたようなところもあり得るのではないかとも思います。

 

その名が菅沼藤十郎定顕です。

家康が兵糧確保の件、酒井雅楽介正親に下知し、酒井はその菅沼へ「指揮」したといいますがその「定」が名にある菅沼といえば野田(またこちら)の菅沼を連想することは当然の流れ。

 

その書の中で菅沼定顕が思い描いた理論は「真宗寺院の蔵には米が唸っているのでそこから拝借すればイイ」といったところ。

そこで使者を上宮寺に向け「たくさんあるのだから借用したい 翌年には一倍にして返す」と申し入れたところから。

それにしても「一倍」返しとは?

不躾にもその返答がされる前に「人歩を下知して理不尽に皆ことごとくはこび取けり」でした。

検品も誓約書も無いどころかその承認も無かったといいます。

 

そこで上宮寺は当然に「菅沼がいたしかた以の外理不尽なり」と怒って正満寺(勝鬘寺)・本称寺(本證寺)に使いをたてて評定したと。

当たり前のことです。

「抑、当寺の事は守護入らざるの所に此度菅沼藤十郎かやうかやうの仕かた不届千万言語に絶したければ其儘に捨置がたし」と檀越の輩いよいよ集まって「何にもせよ前代未聞の曲事なり、然るうえは藤十郎を殺害して後来の見こり(懲り)にすべし」と得物を手に手に取ってエスカレートしていきます。

維新後に勃発した三河大浜騒動にも似ています。

 

ということで各門徒寺の檀家衆は鬨の声をあげて菅沼の屋敷に乱入、家人どもが「周章狼狽する中(菅沼定顕は岡崎へ登城中)、打ちこわして家財雑具を奪い取り勝鬨とともに上宮寺に引き取った」といいます。

 

そこでつぎに怒ったのは酒井雅楽介。

「菅沼藤十郎事守護入ざる地とも存ぜずおして米穀借用の事不届至極なり 但し上宮寺僧 法を存じ申さるるにおいては穏便の沙汰をもって巨細を訴訟し裁許に任せらるべきの所に其儀なく、大勢徒党し理不尽に定顕の家族を追捕し罪なき女童を無体に打擲(ちょうちゃく・・・棒でぶつ)しあまつさへ財宝以下ことごとくうばひとらるるの条 尤菅沼が狼藉に百倍す~」でした。

 

そしてまた上記書状の件、上宮寺側が「此儀いかがあるべし・・・と評定しける所に渡辺源五左衛門(高綱)・渡辺半蔵その使者を「抜打に切殺す」とありました。

 

一向一揆について江戸期の百姓一揆と混同して捉える歴史好きの方がいらっしゃいますがまずその一揆中、彼らの中心的存在は武家またはその徒ですね。

上記に檀越(だんおつ)と記しましたが、寺たちのスポンサー、有徳なる人々でした。

「坊さんが悪い」ようなことが記されていますが僧俗平等感覚のウェイトが高い真宗では勿論の事、世の中、末端から湧き上がってくるものの統制コントロールはしがたくしばしば暴走の如くになることよく見られます。

 

ドラマ等でのその描き方次第では辟易とさせられることになるかも知れません。

 

また最近「倍返し」の台詞はよく聞き及びますが「百倍返し」の件に注目。

酒井雅楽の怒りから出たということですが、ちょっと表現過大。その手の最近の言いぐさ、是が元ネタ? と思いもします。

 

米蔵の米を「一倍返し」を約して勝手に奪い取り、その仕返しをされて「百倍返し」と吹聴したところ。

膝を叩いて面白がるところでした

 

画像は昨日の続き。

落城させた上之郷城を任された久松俊勝の菩提寺安楽寺。

俊勝の墓塔周囲には板碑等ズラリと並んでいました。

東側の土饅頭の如くの盛土が気になりましたが不詳⑦⑧。

何か謂れがあるのでしょうが・・・ 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    がつお (水曜日, 15 2月 2023 09:55)

    私は前回で視聴をやめることにしました
    甲賀者の仕事(鵜殿の息子の生け捕り)を伊賀者(服部党)の仕事に変えた時点で見る価値無いなと
    伊賀越えも新説(甲賀越え)を採用されないことを願うばかりです
    このドラマに採用されてしまうと全てが嘘ということにされそうで

  • #2

    今井一光 (水曜日, 15 2月 2023 17:36)

    ありがとうございます。
    あることないことゴチャ混ぜでそのすべてがホントになってしまいそうな感じ。
    やはり「無理!!」だったのですね。
    私はもう少しばかり「忍んで」視聴してみます。忍耐力勝負です。