伝えられるトルコ地震の犠牲者数が時間をおって増え続けていますが、建物の倒壊と瓦礫の山を見て地震に対して如何に人が弱くて、対応の術が限られている事をあらためて知らされます。
辛いことです。見ているだけでも・・・
自分があの瓦礫の下に埋もれていると思ってしまいます。
彼の地の建物の耐震性については比較的脆弱であるとの指摘はありますが、日本にもその手の建物はまだいくらでもありますからね。
ウクライナでは人と人の考え方のズレ(戦争)によってその数倍の人命を失いより広大な地域都市が瓦礫の山になっていますから、同じ被災という意味では自然(断層のズレ)を凌駕しています。
それほどにまで人間が人間に対してリスク要因となっていると思うとこれまた恐ろしい。
今度のトルコ地震の死者数の推移を見てそのバカバカしさを思い知りました。
扨、鵜殿氏の上之郷城は忍びの作戦で~それが服部半蔵だったかという点は別にして(通説では伴与七郎の戦働き)~落城させられたというのが歴史上の了解事項です。
その鵜殿長照が討たれた場所は通称「鵜殿坂」として今も地元には伝承が残ります。
そちらは上之郷城からは少々離れています。
赤日子神社へ当初向かった「矢倉場」という如何にも城郭都市の施設を思わせる地の交差点まで戻りそちらを国道473号線方向に向かいます。
するとその次の信号機のある交差点の右側、手前に「蒲郡市立北部保育園」があり向こう側に「市立蒲郡北部小学校」。
その二つの施設の間を通る道が「鵜殿坂」になります。
大した高低差を感じさせない緩やかな坂道ではあります(場所はこちら)。
鵜殿長照は形勢不利の状況で子供たちを連れて駿河に落ち延びようと城を脱出したのでしょうが、こちらで追手に追いつかれて鵜殿長照は討たれたといいます。
その子供たちが人質となって駿河との交渉の駒となったわけでした。
そちらの我らが殿様が討たれた場所を忘れないというこの地の人々たちの意があったのでしょう、こちらでは「坂で転ぶとその怪我は治らない」なる怖い言い伝えがあるようです。
別名として「腹切り坂」とも。
要は子供たちへの戒めの一つでしょうが、「この場では悪ふざけをすべからず、慎め」という雰囲気を抱かせそれを伝えようとしたのでしょう。
ただし、あの時小学校の校長先生らしき方(勝手に推測)と立ち話をさせていただきましたが、「市の教育委員会に一言」と「その由縁を記す掲示板の一つもあれば嬉しい」と身のほども知らずにご注進。
まさか大河ドラマに登場するとは・・・ということでそういった配慮は無かったのでしょうね。
もしもドラマでこの坂での戦闘が描かれれば、火急に掲示板を立てることでしょう。
蒲郡を応援します。
画像①は矢倉場。画像右側の地名です。
②③④が鵜殿坂。
⑤は②左側の安楽寺境内からの図。左側に幼稚園、右側に小学校が見えます。
⑥~は②画像の右側にある北部公民館の地誌碑と句碑。
この地は宝飯郡静里村といったそうですね。
1889年(明治22)水竹村、清田村、坂本村が合併し、静里村。 1906年(明治39)蒲郡町、豊岡村、神之郷村と合併し、蒲郡町。
とあります。
句碑の内容。まさに尤。
それこそが生きているということですね。それぞれに。
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