叔母の定期検診の日。榛原病院へ向かいました。
週明けということでX線検査室前と整形外科待合室は大変混雑していました。
検査内容は骨折手術して2年目の経過観察ですが、先生が言うには統計上この2年の経過によって異常が見られなければ手術としてまずまずと。
よってこれが「最後の検診」と断言していただきました。
あとは「再び骨折がなきよう・・・」とのこと。
叔母は89歳。その齢ともなれば再びの骨折はつきものですからね。なんとか無事に生活していただきたい。
何せ病院に同行するその時間は結構にキツイものがあります(「私の都合」です・・・ )。
叔母には4つ下の妹がいます~当然私の父の妹です~が以前「姉と一緒に・・・」と私の手配をもって同施設に入所したい旨話していました。
手続きや資格など実際には無理な話でしょうが「叔母にどうよ・・・? 」と聞いたところ「冗談じゃあない・・・」と。
そういえば以前は最初のうちは仲良く接していてもスグに喧嘩になっていました。
私も「これ以上は無理」というところですが叔母は叔父にも介護タノムとばかりに依頼したようですが「それは困る」と断られていたよう。
当然ですね。そもそも私が今関わっている叔母には子供がいませんが、その叔母には娘が二人います。
疎遠になっていると聞きますが・・・
どう考えてもその支援は実の娘がやるべきことですからね。
叔母の家を取り壊す際に、私はその下の叔母に「こっちに来て継続する?」と伺いをたてたことありましたが、そうならなかったことに今胸を撫でおろしています。
思い起こせば叔母の家の借家権抹消と取り壊しも面倒な仕事でした。早いところ解消したことは何より。
叔母は相変わらず「100まで生きる」と豪語していました。
まさに健康の様ですから十二分にそれはあり得ますね。
コロナになっても症状も出ず、ケロッとしていたくらい。
別れ際「鰻はいつ食べに行くのか」と攻め立てられました・・・私ども以上にバイタリティがあります。
尚、施設の外出許可はまだ出ません。
昨晩夜のNHK「病院ラジオ」は子供たちばかりが登場していましたがどちらの方もそれぞれの病に対して無茶苦茶に前向き。
「病」と「老」の皆のパワフル元気は見習わなければ。
私らも続かなくては、泣き言は少々にして。
扨、山中城の縄張り図等。
この城の名称について、なぜか江戸期の古い史料には出てこないのです。
昭和54年に刊行された日本城郭大系第9巻にあるものは④の「羽栗城」(の推測)であってそれも「場所・遺構ともに未詳」とあります。
ただし、例の大系の「その他の城郭」には「山中城」はあります。
岡崎市舞木町
西郷信貞在城。松平清康攻城。曲輪土塁が残る。
とありますのでまさにこの城のことを記しています。
しかし記述が「その他」であって本編ではないところを見ても大系の発刊当初はそれほどその名は表に出ていなかったということがわかります。
しかし今この山中城といえば岡崎(西三河)一番のスケールの山城ということで名が通っています。
私はその羽栗城と山中城は同一と考えますがね。
浅野文庫の絵図にも似ていますし。
⑦は⑧の「しろやまばし」を渡って順因寺と病院方面を振り返った図。
この城は三河一向一揆の際には一揆方に奪取されたといいます。
岡崎と松平の歴史を語るに欠かせない城です。
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