雨山城 防御柵で菅沼軍を迎え撃つ 中津城の阿知波

一昨日昨日と天候不順ながら気温は高め。

温かく湿気が高いのは有難いこと。庫裏内気温は20℃超えとなって寒さからは逃れられました。

月末にはまた「寒波が来る」と脅されていますのでこういった季節の気まぐれによって少しでも楽をしたいものです。

 

昨日はたまたま「正月に顔を出せなくて・・・」とお二方が同時に庫裏に。二人ともマスク装着の為一瞬、間がありましたが、古い顔なじみの様でした。

偶然にもお二人は年末から年始にかけて「コロナに罹っちゃって・・・」とそれが共通の話題。

 

お二人とも70代ですからいわゆる「(コロナ症状)心配される年齢」ですが一方は夫婦で罹患して無症状。

もう一方は38.5℃と喉の痛み程度でみなさん自宅療養とのこと。

「風邪と同じ・・・」とはいわれますが現実社会では死者数のカウントは日々最高を更新していますからね。

「人によって違う」ただそれしか言いようがありません。

 

ただ念のため・・・と伺ったところお二方とも年末に「5回目」ワクチンを接種済み・・・とのこと。

私の最近よく聞く「コロナになっちゃって・・・」(やたら周辺多し)の方たちはまず「5回目」を接種していました。

短絡記しますが「5回目を打つとコロナに罹る」とも思ってしまうくらいなのです。

 

さて、雨山城。

城郭大系(その他の城郭)では「雨山砦」。額田郡額田町大字雨山になっています。

「奥平定助在城。弘治二年奥平貞勝が築いたが、今川氏により落城した。」とさらり。

 

あの日(雨山城行脚)は道路脇の家屋の庭で作業を行う人を見かけたため車を停めてインタビュー。

お話の中で感じたことは最近の地元での町おこしに雨山城(阿知波城)とその「歴史を知っていこう」という前向きな雰囲気が漂っていることが感じられました。

それも地元の殿様は阿知波でありその砦と屋敷跡への思い。

あくまでも今川方として風越峠を進軍してきた菅沼一統は敵役ということだったのです。

菅沼兄弟の墓の有様もそうでしたが、地元からすれば郷土を蹂躙せんと踏み込み襲来した敵の将。討ち取って負かした後、いつしか弔いの気持ちも薄れていったということでしょうか。

 

会話の中で思ったのはおそらく昨年、九州の中津に行くツアー招集が地元であって有志が集まり「雨山奥平」を肌で感じてきたということ。

溢れ出した「筋金入りの地元愛・・・」を垣間見たのでした。

 

阿知波一統はこの目の前の道路から雨山川から向かいの山の麓付近まで防御柵の何列かを設えて菅沼軍の襲来を待ったとのこと。

長篠の防御柵を思い起こしますが、その柵によって菅沼一統の進行を抑え、大将の首級をあげたということでしょうね。

ウィキには菅沼定村の件「阿知波五郎兵衛から放たれた矢によって、馬上から下知する定村は左喉から耳を貫かれ、落馬絶命」とありました。

 

私が史料が欲しいと図々しく頼むと2㎞ほど下った場所の「力(ちから)さん」のところへ・・・と紹介いただきました。

その「2㎞ほど」というのがダム下から雨山の熱田神宮あたりのことでその間が雨山の集落ということになります。

 

その力氏に伺えばやはりその方も同じく中津に参った方で画像⑥がその力氏にいただいた図です。

城の位置が推測できる古地図、防御柵らしきものが記されています。

また2020年11月の愛知中世城郭研究会の石川氏によるレポートを拝見させていただきましたが

雨山城は弘治二年の雨山合戦の舞台となった城であり比較的知られている城であるが、その位置や形態も含めて不明であった。この度、改めて調査する機会があり雨山城の姿について明らかになってきた~」とありました。

「明らか」と断じていますね。

 

そして、阿知波が何故にして奥平か・・・

雨山城の別名阿知波城や小字名「アチワ」の通りこちらには阿知波氏が在城、元は尾張知多郡の出といいます。

図書佐定のころに雨山に移ったようでこれは一説に織田方の三河深くの楔、橋頭堡ともいわれています。

上記「熱田」は阿知波氏がらみの神社ですから如何にも「当初織田」の匂いを感じます。

 

修理定直の時に奥平に改姓(天正元)して甲州に走った和田奥平氏に代わり雨山奥平、奥平七族の一つとなるという経緯を辿っています。

 

そして何故に中津か・・・

享保二(1771)八代将軍徳川吉宗の時、奥平家第七代の奥平昌成が丹後宮津から一万石加増されて十万石、豊前中津城に入城し明治まで。

その奥平家の一翼を担う「雨山奥平」の痕跡を求めに中津ツアーを組んだということでしょう。

 

最後の画像は中津城をサイトからCPしたものですが、城内の屋敷に「阿知波」の名が見えます。奥平家中では通称「阿知波」で通っていたことがわかります。

阿知波と言えば雨山奥平ということで。

 

①②は雨山城登りはじめに出くわした猪の柵檻。

こういった山路も小さい子供を連れたお気軽行脚は如何にも危険なのです。

大人たちを置いて先に走り出したら・・・想像するだけで恐ろしい。

あの鉄柵が落ちたら・・・勿論猪に出くわす事もそうですが・・・

 

③④⑤はブログ再掲。

③には石ころが積まれていましたが私は意味不明につきそれらを除去。

なぜか大抵、人は石を積みたがる・・・