二葉松には雨山は宝飯郡 菅沼定貴・定満 近藤彦七

昨日耳にした直近の葬儀式にかかわる状況。

相変わらず年明け後、葬儀社はどちらも煩忙だとのこと。

6日から7日は待たなくてはならないといいます。

 

先般、浜松市中心から10分程度の住宅地を走りましたが閉店とシャッターが目立つ個人店を尻目に、目立つのは「家族葬の〇〇」と銘打ったこれまでとは小ぶりの葬祭場の数々。

中には閉店したであろうファミレスを改装したかの如くの出で立ちのそれもあったりします。

その世界に参入すべく企業乱立の感もありますが、選択肢として「今こそ・・・参入」ということなのでしょうね。

多死社会のうえコロナによる死者が数多、需要が多いことは事実ですがそのあとは少子化ということで人が居ない社会の到来も感じます。

 

現状コロナ禍は国として、これから嵩む年金と医療費のことを考えると高齢者がところてんの如く押し出されて死んでいくこと、まんざら「悪くない」というところなのでしょうね。

それを考えている側の人間も死んでいく身なのですからね。

むしろそっちが「お先に~」という具合に消えてくれた方が庶民にとっては有難いのかも。

何せ税金泥棒の輩、いい事なんて一つもない。

 

さて、昨日の通り雨山行脚に突然踏み切ったその目的は前回の雨山放浪の時とは違って、案内板などが充実したという情報を得たためで、特に新しい発見がありました。

その第一が菅沼新三左衛門定貴・半五郎定満と近藤彦七の墓でした。

菅沼定村の弟たちと家臣ですが前回訪れた際はお目にかかることはできませんでした。

岡崎方面を背にして雨山ダム方向、右手の雨山合戦の標や左側の段上の定村の宝篋印塔の土台のある場所より少しばかり岡崎寄り、右手の雨森川に架かる橋の上に②③が。

ちなみに④が岡崎方向になります(場所はこちら)。

 

橋を渡って30~40m、左側の藪を注意して進めば⑤の黄色の円内の標識が見えますのでそちらへ。

そちらには近藤彦七という方の宝篋印塔残欠が散らかっていました。

そしてその上方には定貴と定満といわれる宝篋印塔が。

一基は当時のままの如く比較的残っていますが、もう一基は崩壊中。きっと他にも近しい者たちの墓石もあったことでしょうが、今はそれを推するのみ。

 

山の斜面では礫と混ざり合って崩れるでしょうし、墓石そのものも土石とともに下方に流れ、埋もれることは必至。

人の手を入れることが必要ですね。

 

①が三河二葉松の雨山の記述箇所。

昨日ブログの通り、こちら雨山は額田郡とてっきり思っていましたが二葉松には宝飯郡として記されていました。お隣には作手の記述も並んでいました。

設楽郡としてもなるほどという場所ですがね。

 

最後の画像が墓石から下方を見たところ。⑤画像の逆。

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    ジョンカモン (土曜日, 14 1月 2023 17:03)

    いつの日にかとおっしゃてたのが
    早くも訪れたとは、驚きです。
    先陣を進んだ定村の討ち死にの後、
    弟たち定貴、定満もまたどんな最後
    だったのでしょうか。

    この合戦地は新城野田から現在は豊川市
    を北上、風越峠を通過すると雨山に出ます。
    雨山は今は岡崎市ですが、昔から本宮山圏で
    また、一宮砥鹿神社を中心とした地域でした。
    従いまして、雨山の方言も東三河に近いと
    思います。

    豊川と雨山を結ぶ道路、なんと県道があります。
    しかし、途中は獣道のごとく、当時のままかも
    知れません。

    野田の宝林寺の五輪、2人の弟たちのお墓へも
    機会がございましたらぜひお立ち寄り下さい。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 14 1月 2023 19:01)

    ありがとうございます。
    野田城も徐々に整備が進んでいるといいその地にもまた足を運びたいと思っています。
    またよろしくお願いします。