花は春ごとに 開くぞかし 宿縁寺 

昨日の「実は・・・」の神妙、は先月下旬に脳溢血で倒れて、医師より「あと一カ月」の宣告を受けた方の件。

年初から久々にあう方の口からでるその(家族の)近況というものは結構にシビアです。

時間、インターバルが如何に変化というものを招き、それがまた恐怖であることを感じます。

また、一昨日聞いた「寒さ」を原因とする病変もそうですが、先月は冷え込みが急で身体の対応が追い付かなかったのかも知れません。得体の知れぬウィルスの蔓延もあったでしょうね。

例年にない正月の有様です。

 

また94歳バリバリ、今年も「車を運転して来た」という方とご挨拶。自宅には娘の孫子が集まって「賑やか」だそう。

嬉しそうでした。

そんな大切な時間の中お寺にお参りに来られたことに私も嬉しくなりました。

ちなみに曾孫の数を聞いてみると13人。

お年玉に「10万円+αの出費を覚悟」とのことでした。

長生きにつき仕合わせ・・・ということは言うまでもないところですが、やはりおカネも必要だということか。

 

昨晩は再放送の「立花隆 最後の旅」を視聴。再視聴です。

正月は再放送ばかり、その中で消去法。

癌を患うようになって以降、彼なりの生死観が醸成されていったのでしょうがやはりどうしてもそこのところ、私には違和感しかありませんでした。

知を求め続けた立花氏が「死んだらどうなる」の解を求めようとしたところ、特に。

そこから「無・・・ゴミ」という結論に至ったように感じます。

私には人類の進化だとか、知の循環だとか、それこそ深く探究していこうなどの気は起りません。

 

宗教と哲学を度外視した超が付く勉強家故の立花氏の在り方を垣間見たところですが、「人の死」についてなど「阿弥陀さんにまかせておけばイイ」、「考える必要なし・・・」「知る必要もなし(いや、わからない・・・) 」というのが私のいつもの思量するところ。

私が死した後も春には桜が忘れずに開くもの・・・。当たり前のように。

それが自然(じねん)です。

人類の存在、存続すら危ぶまれている世界と日本、その永遠など心を振るなど私には無理。

 

画像は昨日と同じ宿縁寺、岡崎城移築二の門の奥、枝垂桜と宿縁寺堂内阿弥陀如来。堂内にテーブルが設置されていましたが、これまで見てきた各寺院堂内で初めてのこと。

たまたま講習会等が催されたあとだったのか、テーブルがあるというのは便利です。ただし、人員が限定されてしまいますね。

片づける場所も必要です。