「渡」は矢作川を渡った裕福な里 家康の忠臣 渡城 

昨日お話した方は安城市在住の方。

チャキチャキの三河門徒ということで一向一揆について話しだせば「3時間でも足りない」といいます。

 

その主張を概略羅列させていただけば・・・

①一向一揆について理解し語ることができるのは今や安城のみ②浄土真宗門徒の人以外は信用しない

③徳川家康は大嫌い

④大河ドラマなんて「ただのドラマ」(バカバカしい・・・)

 

といった感じだったでしょうか。

パワー漲り、一瞬唖然、過激とも思える一本気。凄い・・・

浄土真宗愛というものが感じられ何とも好感の持てる方でした。

そういう方がおられる事は当流的にも頼もしいことですし、私はあたかも永禄年間の真宗全盛の時代にタイムワープしたような気持ちになりました。

 

上記④については次回大河ドラマで「空誓」の配役が決まったこともあり本證寺が描かれることが「コレで決まった」旨を話そうとしたところの反応ですが至ってクールでした。

 

この空誓の身代わりとなって討死したのが円光寺14代順正

でした。

本證寺空誓が家康に敗北、敗走のシーンが三河一向一揆の終焉として描かれることでしょうから、その派手な立ち回りの演出があるのでしょうね。

 

さて、先日は渡城、鳥居氏発祥の碑について記しましたがそちら から矢作川の土手に向かって歩きます。

⑦画像が鳥居氏発祥の碑前辺りから土手方向を見た図。

⑧が土手の上から振り返った図。

 

その土手の手前に渡城の碑が建っています。

渡は倹約と蓄財上手の廣忠の忠臣鳥居忠吉がいますが、渡の地名は勿論矢作川対岸、「渡った地」からでしょうね。

国内この「渡」の付く地名は「〇〇の向こう側」という地によく見えますね。

 

先ず城郭大系から。

例によって「その他の城郭」でさらっとです。

「渡城 鳥居忠氏築城 鳥居氏紀州より来て代々居城」とありました。

元はといえば熊野新宮別当ということで、家紋は鳥居、氏も鳥居。それでいて永禄年間は浄土真宗との関りがあったといわれる家ですね。

長嶋氏は今の鳥居家本家系、分家一統には「鳥居」氏が各あります。のちに成瀬らと入ったといわれる六名の地にも散見できます。

 

⑨上流方向⑩対岸⑪下流方向。東海道線橋梁が見えます。

成瀬藤蔵の入った木戸城や本證寺はさらに下流になります。

 

 

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コメント: 4
  • #1

    がつお (火曜日, 27 12月 2022 10:30)

    すでにご存じのことと思いますが、元日の歴史探偵に本證寺のご住職も出られるそうです
    本證寺Twitter
    https://twitter.com/Honsyoji/status/1607324437229236226
    先日本多正信の墓所の件で少しだけお手伝いさせてもらいました

    私は伊賀越え(甲賀越え)のほうに興味大ですが・・・

  • #2

    今井一光 (火曜日, 27 12月 2022 19:56)

    ありがとうございます。
    1月1日の夜10時ですね。
    その件初めて知りました。
    しかと視聴いたす所存です。

    本多正信墓所の件・・・て、ことはお西?

  • #3

    がつお (水曜日, 28 12月 2022 00:54)

    本證寺のご住職もそう思って西本願寺に聞かれたものの記録がないとのことで何処に?ということでした
    twitterを検索していて住職のツイートを見つけたので興味本位で調べてみました
    寛政譜は本願寺としか記載がなくWikiなども西本願寺としていますが、どうも東っぽいなあと思って検索したら「駿河志料 第2編」に「正信遺骨は京都東本願寺に蔵む」とありその旨ツイートしました
    https://twitter.com/mokunojou/status/1597603810591272960
    (これ私です)
    結果はどうなのかわかりませんが東の可能性が強いと思います

  • #4

    今井一光 (水曜日, 28 12月 2022 09:25)

    ありがとうございます。
    私は正信といえばお西というのが頭にあり、いつか東山のお西の墓域でも歩いてみようか・・・などと考えていたほどです。
    秀吉に追い出された教如さんが家康派として本願寺の正当性が得られた際、本来ならば本願寺教団を教如さんが継承するスジを東西分流というカタチに収拾させた家康でしたがそれに懐刀の正信が知恵を付けたと考えると、西の存続維持の功労者でもあり当然の如くお西に墓がある考えていました。
    当初は「本願寺」といえば一つですが、分流以降「本願寺(派)」と言うと厳密に「西本願寺」というイメージが固定(東本願寺は大谷派)されていますからその辺りも世間の錯誤の原因になっていると思います。
    現在でも葬儀司会者からも「浄土真宗東本願寺末」 (正式には真宗大谷派 東本願寺末)で紹介されるほど、世間様はどうでもいいことですが、「本願寺」が複数(他にもたくさん)ある現在、しっかり紹介していただくことも肝心かも知れません。