信長公記の三方ヶ原 徳川方では成瀬の名 阿弥陀寺再

先日、朝だけ雨が降った日、外から舞鶴殿が玄関内に戻ったため、あわてて段ボールを玄関に敷いて「ここに上がれ・・・」と濡れた体を「やれやれ」とため息交じりに拭いてやりながらネコの相手を少々、たたきから上がる際に上履きサンダルを履ききらずに動いたところ、躓きました。その敷かれた段ボールの上に躓いた左足をステップしたところ、さらにその段ボールが滑ってすってんころりん。

思いっきりヘッドスライディングをしたわけです。

そしてサンダルの上部に足の小指が引っ掛かったまま倒れたためどういう具合でよじくれたかのか、今左足の小指と薬指が青黒く腫れています。

 

奥方は以前、私の右足の小指が折れた際のことを思い出して「そりゃ折れてる 医者に行け」と爆笑。

息子にもメールして喜んでいました。

その時は横須賀(神奈川県)の海岸で息子と奥方に「いいか、ここは滑るので十分注意しなさい」と散々注進した直後に私が滑って転んで指が90度外側に開いたということ。それを手で元に戻し、あまりに痛いので診療に行ったところ「そりゃ折れてる」と医者に笑われた件。

今回はネコ関りの左足小指。

痛さは同じながら診療は不要です。

「そりゃ折れてる」と笑われるだけですし。

折れてなければそれでヨシ。

そもそも足の小指の骨折など治療の方法はありません。

肋骨を折った時も「折れてる」と言われて、痛み止めと湿布薬でおしまい。

ただ前回と違うのは夏ではなく指先冷える今だということ。

靴下・足袋を履くだけで痺れる・・・。

昨日は一日中境内作業で冷え切りました。

 

さて、先日のブログで成瀬藤蔵正義の位牌について記しましたが

「お祭り~」さんから平山優著「新説 家康と三方原合戦」を紹介いただきした。

私は足をひきづりながら早速に近場の書店に向いましたが、あいにく欠品中とのこと。

のんびりと本を読む暇はありませんので「まぁいいか・・・」と帰宅しましたが、その書籍は「新説」だけあって面白そう。

「お祭り~」さんからあった「書物に成瀬藤蔵の名が」は「信長公記」からの記述から引っ張ってきたものですね。

 

それをこちらに記せば・・・

 

 

「信長公記 巻五<元亀三年>

 

これは遠州表の事。

霜月下旬、 信玄遠州 二股の城 取巻くの由、注進これあり。

すなわち信長公 御家老の衆 佐久間右衛門佐久間信盛 平手甚左衛門 水野下野守 大将として、御人数 遠州浜 遠州浜松に至り参陣のところに、早や二股の城 攻め落し、その競いに 武田信玄 堀江の城へうち回りたり相働き候。

家康も浜松の城より御人数出だされ、身方ヶ原にて足軽ども取合い、 佐久間 平手をはじめとして懸け付け、互いに人数立ち合い 既に一戦に取り向かう。

武田信玄 水股の者と名付けて三百人ばかり真先に立て、彼等にはつぶてを打たせて、推し大鼓を打ちて、人数かかり来る。

一番合戦に 平手甚左衛門 同家臣の者

家康公の御内衆 成瀬藤蔵 十二月二十二日身方ヶ原にて数輩

討ち死これあり。」

 

信長公記の作者太田牛一が三方ヶ原戦討死の徳川家臣数多ある中、「御内衆 成瀬藤蔵」とただ独り挙げてそれを記している

のでした。

要は他に知っている者が居なかっただけと言ったらそれでおしまいですが、それ以前に信長軍と同調した六角観音寺城攻め志賀の陣姉川に出張っていたことが推測されますので家康家臣団でたまたま知った人の討死を記したということでしょうかね。

 

画像は以前記した阿弥陀寺の信長親子と本能寺討死の家来衆の墓。最近京都から足が遠のいているのとあちらの墓域は私の一押しの墓地でした。

以前の画像は近接しすぎにより。

遠目からのものと灯篭付きで。

古い墓がところせましと並んでいました。