昨日は境内作業をサラッとやってからは奥方の事務仕事をぼか~んと眺めて一日終了。
天気が怪しくなるというので地植えのハイビスカスを覆っている簡易温室の補修を行っていました。
他の観葉植物の類をその根元周囲に押し込んでいますが例年枯れる個体もあってその件は仕方ないと割り切っています。
1~2月は温室と言っても5℃を割ってきますので無理もないところ。
作業中、驚いたのは蚊の襲来を受けた事。
「師走だぞ」と口走ってしまいましたが、あ奴らの生命力なのか成長戦略にマッチした当地の気候なのか知りませんが彼らのしぶとさは見習うべきですね。
庫裏の寝床にも侵入しますから手に負えない。
そして天気予報を見てこれまた驚き。
ただ「東京は寒い」と感じました。5℃と少々の予報が出ていました。
相良はおそらくまだ10℃は割っていないかと。確か昨朝は17℃くらいはあったかと。
そういえば冬場に東京方面から当地に来られた方が「相良は暖かい!!」と驚きの声をあげていました。
人口減少傾向の当地にあって、「この地に越して来た」と新しい居住者の件、最近耳にするようになりました。
もっともっと増えてくれればありがたいのですが。
「相良は温暖」これはウリ。
さて、昨日まで記した中根家については中根克明氏のサイトに詳細述べられていますのでそちらを参考にすれば概略その流れを見ることができます。
苗木の中根との繋がりの推測も面白いですが、拙寺の妙意つながりでいえば
「三方ヶ原の戦いで敗北。この戦いで正照(正秋)は戦死する。正照(正秋)には子供がいなかったので、家康は織田信秀(信長の父)の十男織田信照を中根家の養子とした。
信照は信長の異母弟になる。「張州府志」には「按織田信秀時熱田商家有一女甚美、信秀奪以為妾生子」とあるので、母親は熱田の商家の娘で美人だったらしい(その実家も中根家だったと言われる)。
しかし、同書には「土人亦曰、織田越中者天性魯鈍人也」と書かれている。その魯鈍の内容は『馬が五十匹あると言って、召使に一匹の馬を終日何度も洗わせた』ということ」
中根氏は権力争いに巻き込まれないための作戦だったのではないかと考えられなくもないとのこと。
「この中根信照が中根忠実(實)と名乗り、本多忠勝の妹を娶り岡崎藩士中根家の初代となった。
忠実は初め家康の子信康に仕えるが、信康の死後家康の直臣に戻る。その後1590年、本多忠勝が大多喜を領有することになった際に、忠勝に付属され、以後代々本多家の重臣となった。」
まぁ妙意が本多忠勝の姪との件、三方ヶ原戦以前のことですからその時期まで本多家と中根の関係が遡れないと・・・何とも言えませんね。
画像は岡崎市中心部より北、蔵前という地の本多忠勝の生誕地といわれる場所。
矢作川支流の青木川に架かる青木橋を渡って左方向。
元はと言えば西蔵前城なる地。
本多忠真の欠城(東岡崎公園)、箱柳城とも遠くない場所(こちら)。
今は城郭遺構を思わすものは見えず、完全に宅地化されています。
南側直近の青木川⑤⑥やらその支流の自然の堀を生かした立地になりますね。
その北側には東蔵前城址と言われる神社が。
ちなみに城郭大系の「その他の城郭」の項には「東蔵前城」が。
「内藤弥次右衛門家長在城。丸根城とも称し丸根美作守家勝が居城とした」とあります。
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