二度とサッカーについて記すまいと思いましたが少し経つとすべて忘れる。人間の一番ダメなところですね。
その気づきを得たのだから反省してヤメればいいのに、また同じことをやらかす。
まぁ国会の杉田の如くの反省ならばしないのも同じ。
ムカつく御仁です。
昨日の法要では「偶然と必然」という語を出して、我ら人間世界には「必然なんてない・・・」と。
スペイン戦で勝利したあと選手が口にして多くの人が言い出していましたので。
我ら人間というものは「すべて偶然・・・ご縁」の中で生かされている事を最近の傾向「植物に学ぶ成長戦略」を例としてブナを登場させて持論を展開。
ブナの親木と子の関係ですが、親はたくさんの子供たちを増やそうと一所懸命にその種を大地に振り撒きます。
ところが種は森林の小動物(リス ネズミ 鳥たち・・・)の絶好の食物になって殆ど食べつくされるのですが、タイミングよく天候の突然の変化などがたまたまあるなど、降雪によって埋まり大雨によって流されるなどして定住地の環境が変わります。
そこにたまたま命の継続を得た種が春を迎えて発芽できるのです。
しかし発芽できたとしてもその環境が光の届きにくいところでは成長が不可能なのでした。
折角、鳥や小動物の食害からたまたま逃れることができた種も根を張った環境によってはその偶然は生かされないのです。
たとえば笹葉の群生するような場所(その底部には光は殆ど届かない)がそうですね。
そして親の直下でたまたま生き残って発芽できた子の成長は遅く親のよう(太く大きく)にはなれません。
それはあまりにも大きな親に繁茂する葉たちによって光を遮られてしまうからですね。
ブナの生命は個体によっては数百年とヒトとは違いますが、親がその命を全うして枯れ朽ち果てたた時、下にいた子たちは一気に繁栄の道を歩むことになります。
親は子に光の空間を明け渡し自らも子らの栄養になります。
当然に子たちの間での競争が生じますがその優劣は「たまたま」根を張れた環境によって決まってしまいます。
すべてにおいて人間も同じです。
「栄光」を求めて成長したいと思い努力するのはみな同じ。
ただしそれはすべてがご縁であることを忘れてはイケないということを。
特に絶好調の時にそれを「必然」と言い放つこと、足を掬われるのが必然なのです。それは傲慢の芽生えであり、すべてにおける失敗の大元となる感覚ですね。
さて、昨日のスペイン戦の勝利はかなりの驚きでしたが、私が得たここ数年で一番の驚きの件をこちらに。
実は昨日記した箱柳城については何時の日か、たしか私が岡崎教務所に行ったついでに「ひょい」という具合に立ち寄ったのでしたが事前の情報は一切ナシ、ただ「中根家の本拠地は箱柳」ということだけでそちらを目指しました。
あのとき、やれやれと竹藪(箱柳城)から這いずるように出てきた私は川の対岸に寺があることに気づいたのでした①。
城址に寺が付随することは経験上まず必然ともいえるほど確率が高いのですがそれこそそれが真宗寺院であるかどうかで林氏のガチ真宗の釋尼妙意が中根家出自という説にケチがつきますからね。確かめなくてはなりません。絶妙のチャンス(これも縁)でした。
まぁ中根家に関係あるかどうかわからず、わくわくと期待を込めながら寺に向かいました。①画像からは真宗寺院かどうかなどわかりませんし、特に西日に当たって鐘楼が赤っぽく朱塗りの如くにも見えて、疑心暗鬼でした。
石標には白柳山聖徳寺とだけあってその段階では宗旨はわかりません②。
おそるおそるウラ側③に廻ると「中根」とあります。
小躍りしながら本堂お参りをということで突入④。
一番最初に目に入ったのが「白道」の扁額。
コレは阿弥陀の雰囲気が漂いますが奥を見やると立ち姿の阿弥陀さんではありませんか。
それも光背がナシ。そして当流ならではの土香炉が。
そのあと据え付けの経典を拝見し、拙寺と同じ真宗大谷派であることがここで初めて気づいたのでした。
「知らない」ということは恐ろしい。まぁそれだけに知ることに感動を得られるのですが。
ということで中根家が真宗門徒であって釋尼妙意(勒さん)が夫の菩提を弔うために寺に入り、その息子を真宗の僧にしたということに整合性があるということ、林氏の推論はひょっとして正しいのか・・・などと思った次第。
この件の感動は忘れられませんね。
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野村庄右衞門幸正 (土曜日, 03 12月 2022 12:00)
德川慶喜公の側室の1人は中根幸さんという名前ですよね。旗本の娘さんのようです。繋がってたりして
今井一光 (日曜日, 04 12月 2022 08:39)
ありがとうございます。
江戸初期に幕府内で躍動した旗本家中根はありましたがその繋がりは勉強不足 不詳です。
中根幸とはいい名ですね。