相良弁でいうと「おぞい」一日でした。
おそらく一日中降り続けて、やむ時間帯などはなかったのでは・・・
日没後に東の空が雷光で時折明るくなっていましたが雨天の夜間の運転をして、これほど「恐ろしい」を感じるものか・・・久し振りに体感しました。
最近は「夜はリスキー」と同年代の方たちとその運転感覚が「昔とは違う」旨、話題に上がっていますがそれに雨が重なればまるでイチかバチかで走っている感あります。
特に右左折のおそろしさよ・・・慎重のうえに慎重を重ねて何とか帰宅する事ができました。
以前はこういうコンディションでも平チャラの躰で走っていました。
若い頃はより危機意識が低かったということでしょうか・・・それとも老化?
さて、先日来林氏の拙寺三代祐傳の母、勒さん釋尼妙意の出自についての推論を転記させていただいたこと、記しています。
ポイントが中根氏ということですが、元亀三年のあの時、二俣城の城将に中根平左衛門正照がいました。
信玄に二俣、天竜川からの取水井戸を壊されて、籠城維持不可能と判断した中根は武田方との交渉のうえ開城します。
あの城は如何にも難攻不落の城、攻城は一方向のみで、集中的に守備を固めれば大群強敵といえども、恐れるに足らず。
善戦していましたからね。
天竜川を背にする陣は如何にも不安であることはわかりますが、やはり水の手を絶たれて戦意が喪失したというところでしょうか。
その撤退の際の件、よく言われるのが中根の天竜川の渡河についての様。
大河という城の大外堀を「如何にして渡るか」は軍事上の必須命題です。
大軍とそれに伴う大量の兵糧を無事に、確実に渡河させることができるかどうかについての検討は当然。大軍を率いる者としては頭が痛いところですね。
事前情報としてあらゆる情報網を使って渡河域を決めているものの非地元である甲州勢にとってはその信憑性には疑問が残るところですし、罠の可能性もあります。
罠と言えば信長の奇襲攻め。
雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に「桶・壺・槍先」を沈めておいて渡河する信長勢の人馬が足を取られて右往左往しているところに矢・玉を打ち込むという策がありました。
敵陣近くの「渡河」は如何にもリスクが伴うもの。
ところが二俣籠城組が浜松に向かって退去する際に、天竜川を渡ることになりますが、その動向すべてを武田方に、特に天竜川を徒歩で渡ることができる浅瀬を知らしめてしまったというのが中根のやれやれ説。
彼はのちに本戦三方ヶ原で討死していますので、そのイージーミスについて引きずっていたのかも・・・
しかし、少なくない人数を退去させるに川の深みを泳いで渡り、相手に浅場を知らせないというのも少々無理な話。
大将クラス周辺なら小舟の手配はできるでしょうが・・・
画像はほとんど大昔のもので失礼。
この10年覗いていません(こちら)。
サッカーW杯ドイツ戦、ジャイアントキリングが起こりました。強烈な驚きです。
テレビの言っていたこと(五分五分)はホントだったのですね。まさかのこの快挙に私のジジイ度をあらためて知ったというところ。
サッカーの話は息子とだけとすることにします。
サッカー談義、私も撤退。
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