先日、了見寺の坊守さんが寺を退去した件を記しましたが、ちらっと聞いた話では住職が脳卒中で倒れた直後「寺は廃寺にしたい」といった趣旨のことを漏らしていたといいます。
ショッキングなことですが、後継者がいないという切実から弱気になっていたのでしょうが、そののち何もハッキリさせることなく玄関で転倒し(頭を打ったよう)亡くなってしまったのでした。
当人は再起して復帰の算段でいたことでしょうが突然の事故が重なって、すべてにおいてどうにもならなくなってしまったようです。
当人の「寺を仕舞う」の意思は潔くまた深慮があったことでしょうが、住職の同級生の方と話しましたが(その方は入院中に何度か見舞いに行っています)やはり結論は、人は誰でも「自分が死ぬ」ということを後回しにしてしまうという当たり前のようなミスを犯すもの。
「準備不足の手遅れ」というヤツです。
私が「この世から去る」ことは厳然たる事実であることはわかっていてもそれが「待ったなし」であることは案外忘れています。超ネガティブな未来のことは「棚の上」に忘れがち。坊さんでも気づきにくいのですから在家の方でしたら猶更でしょう。突然のことに遭遇した家族の右往左往の様は幾度も見せつけられています。
仕方ないですがね。
静岡の久能山東にある某古刹でも坊守退去の件があったようです。他流に於いてはその件頻繁に起こることでそうは違和感がありませんが、真宗寺院の場合は法律上の所有権は道場主(住職家)にあって了見寺の坊守さんの場合、のちのちのトラブルをも予見されることのようにお見受けしますが・・・
そちら静岡の古刹の場合は住職夫妻の息子(後継者)が逝去されてからしばらく、住職も亡くなりその坊守の地位が喪失してしまったようです。他流の場合、次の入山者が控えていて期限を区切って乗り込んできますからね。
やはり後継者等の差配が手遅れとなったことにより、坊守さんは寺を退去せざるを得なくなってしまったのでした。
檀家世話人・総代一同に「出て行ってください」を迫られることになりますが、一般的にそれを「坊守を追い出す」という酷い言葉で語られますね。
世話人と総代の仕事になりますが、これは旧坊守に寺を出て行ってもらうことによって他のすべての事が丸く収まってしまうのです。
本山など宗旨法灯維持もそうですが檀信徒にとっても墓域の管理者不在は困りますし寺そのものの安定を欠いてしまいますからね。
よってこの世は人権だ平等だ女性の地位向上だ・・・などと吹聴していてもこの寺という世界にいる坊守(女性)の権利というものは結構に危うく、儚いのでした。
私はただこの現実は「オカシイ」と思いますがね。
私の場合、副住職として「息子である」のは檀家さんほか周囲には承認されているはずですが、それは名ばかりのもの。
正式には「候補宗徒」というもので正式な副住職としての承認はしていません。
ただ彼が存在するだけで坊守(当家奥方)の地位はまずは安泰ですがこの世の無常は先が見えませんからね。
ただ面倒だからということでその「名実ともに副住職」の件は不要と考えていますが本山はその副住職についてしっかり規約を設けています。
副住職
「住職(教会主管者)を助け、寺院(教会)の興隆発展に努める者として、当該寺院に僧籍を有する教師の中から、総代の同意及び宗務総長の承認を経て、副住職(副教会主管者)を置くことができます。なお、副住職を辞退するときにも同様の手続きが必要となります。」です。
こういったステップを踏んでようやく「副住職」を名のることができるわけで、住職(私)が突然何らかの原因で不在となった場合にスンナリと、サクッと継承ができすべての事が安泰になるのでした。
住職も寺族も寺を追い出されないためにも日ごろから世話人・総代さんと親密にしておかなくてはならないというのがそのポイントです。
さて、先日は小田原城の西の丘陵、三の丸付近の大空堀と土塁について記しましたがその「小峯御鐘ノ台大堀切東堀」の南端の入出口を出たところがだいたい①~③画像になります。
好天ということもあってこの辺りからの景色は気持ち良くまた懐かしい色々を思い出させてくれます。
この坂を南に下れば箱根板橋・早川口に。祖母たちの墓がある高円寺に当たります。かつてのお散歩コースでもあります。
①相模湾に大島、陸続きの半島に見えるのが伊豆半島の根本、真鶴・湯河原・熱海方向。
②が早川が注ぐ扇状地、その向こうが一夜城で有名な石垣山。
そこから箱根外輪山に接続します。
③に二子山が見えます。秀吉はその向こうからやって来ました。
話は変わりますが東急ハンズ時代「大島の三原山が噴火」(1986年)しました。丁度11月の今頃のことで友人らと
夜景がきっとキレイだろう・・・などと会社が終わった後その様子を眺めに行ったことを思い出されます。
噴火して避難されている方たちとしては「夜景を愉しむ」は腹立たしいことだったでしょうが、沿岸域の人たちは野次馬根性丸出しだったような。
いつか自分たちも同じ目に遭うことが「ある」を忘れているのでしょうね。勿論私もでした。
④は江戸時代に記された小田原城の図とのことです。
早川口ほか相模湾に面した3つの出曲輪と土塁の図に着目。
後世の高射砲陣地のようにも見えます。
秀吉の小田原攻めの際はこの相模湾には夥しいほどの大小の軍舟がひしめき合っていたことでしょう。
あの時、ハナから秀吉のところに参上していれば北条氏は生き残れたはず、家康も匙を投げたくらいに愚かだったのかも。
今や私は小田原人に非ず、北条五代の肩は持ちません。
戦争は戦闘になる前の交渉力で決まります。
何事も先回りして自分の死というものを思量考察し、たとえ生きながらえようとしてもその諸準備は肝要。
北条の始末は如何にも不出来だったとしか。
亡びるべくして・・・でしょうか。
そんなことを思いながら先日はこの景色を眺めたのでした。
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