曇時々晴れ、どんよりした雲に覆われる時間帯が多い一日でした。前日の降雨によって境内作業はナシ。
叔母の入所している施設からの便りを眺めていると車椅子に乗って赤い鉢巻でニッコリしている叔母の顔が映っていました。
タイトルは「運動会が催されました」でした。
驚きましたね。
叔母は「その手のことにさらさら協調する気はナイ」と豪語していましたから。
齢を重ねて「まる~くなった」のでしょうね。ということは私も同様「さらさら、やる気ナシ」の身ではありますが、きっと「だまされ、すかされ、おだてられて」ながら、案外それを楽しみにしていたりして。
まぁ、そこまで生きいてられれば上等のことです。まずムリのような気がして・・・最近は殊に弱気です。
さて了見寺の堀了裕師住職逝去の件を以前記しましたが先日
また了見寺坊守さんから便りがありました。
このほど寺の坊守としての役をやめ、寺を退去するとの挨拶状でした。
次代継承者がハッキリしていなかったのがイケなかったのか檀家衆、世話人方が坊守の離脱をよく許容したものかと思うところ。これでますます檀家衆の負担が増えるような気がして・・・
住職がいないとしても坊守の差配によって法務は仕切れるはずですからね。
まぁこの後の経緯を見守るほかはないわけですが・・・
拙寺は了見寺には長くお付き合いしていただいていますので住職の逝去から始まって今回の坊守さんの退去について気の毒を思う以外の何物でもありません。
継承者が居ないと坊守の立場も危ういのかも・・・を感じさせる事案で当家奥方も「他人事ではない・・・」と。
上記は拙寺過去帳③から。
②は過去帳から出てきた享保十五年十月二十七日に亡くなった当時の了見寺住職の祖母「清浄院釋尼妙厳」の法名札から剥がした紙面。
近年、法事勤修の形跡があったということでしょうか。
大澤寺で産まれたとあります。
1643~1730とありますので87歳。
その時代からしてかなりのご長寿ですが1643年生まれとなると三代祐傳の娘の可能性大。
いずれにしろ昔から縁の深い寺なのでした。
①は過去帳本文。下段右から2番目にあります。
左上に了見寺四世円可の名も。
また妙厳の上に拙寺四世敬祐の弟全受の名が(→道場継承の歴史)。
西尾市の慶昌寺の住職ですが、当時はそれぞれ泊まり込みで葬儀に行ったり来たりしたのでしょうね。
「葬儀は旅」だった時代。
尚、時代がバラバラなのはページが「日にちごと」の括り(こちらは「廿七日」)になっているからです。
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