徒歩十二石三人扶持→お馬廻役二百石 荒川十太夫

昨日の「死刑ハンコ大臣さま」はあっさりクビになったようですね。御当人は当初の常套句「職務を全うする」を発して愈々各方面からの反感を増長させていましたが結局は当の当人が辞任のハンコをつくことになったのでした。

 

死罪という究極の国による処断があってその最終決定の重大責務を担う職務に就くにあたりこの御仁に果たしてその資質があるのか・・・というのが今回の問題でした。

いろいろあって特に例の反社会的教団にはその考えは無いのでしょうが私ども宗旨はじめ宗教界ではその「国による人殺し」の制度に疑問を呈しているところは各あります。

よってあのハンコ発言はとても軽々しく感じられ、大臣の役職にあってあまりにも「軽輩」のイメージが漂いました。

 

さて、昨日は講談「湯水の行水」の内容についてその内容の変化

「講談だから・・・」風、いかにも講談を軽んじたことを記していましたがその件訂正して謝罪させていだだきます。

ごめんなさい。

まぁ講談といえば一つの「おはなし」であり如何に感動的に物語るかという話術の芸ですね。落語と同様「独り芝居」。

私ども僧侶としてもその「おはなし」の構成、発声等々見習うべきところ多多あります。

 

その講談ですがこの度、歌舞伎座での講演会が約100年振りに催されました(神田松鯉・神田伯山 歌舞伎座特撰講談会)。

滅多にはなかったということはその「講談だから・・・」の風が芸の世界にもあったから・・・?と勝手に思うところですがその歌舞伎と講談のタイアップのきっかけを作ったのが歌舞伎の演目にその講談からのストーリーを再構築演出して演じたことから。

 

最近は若い世代を集めようと古典から離れた突飛な「新歌舞伎」に方向をとる傾向があって私としては意味不明、理解不能に陥るにより敬遠のきっかけになっていましたが今回演じられた演目もいわゆる新作歌舞伎になります。

 

講談からのストーリーに着目した尾上松緑が脚本を依頼、新しい演目が出来上がり上演されたということです。

それが「荒川十太夫」。

以前から赤穂義士伝に登場する人物ですがその物語からは、今は無き「忠義」と「粋」というものを存分に感じることができて聞く者、観る者を納得させることができましょう。叔父は「良かった」とべた褒め。

 

ざっとストーリーを記せば荒川十太夫は徒士(徒歩)十二石三人扶持。士分(→ウィキ)としてはギリ苗字二本差しを許された「軽輩」の類。要は下っ端。

それでいながら腕が立つということで彼は介錯人として大抜擢されます。

 

堀部安兵衛の切腹にあたり、介錯人の役を受けます。

その背後に立ち刀を構える荒川十太夫。

腹に脇差を・・その直前に後ろを振り返って安兵衛が唐突に荒川に対して「ご身分は」と尋ねます。

すると十太夫は「ご心配なく」。

しかし、それでも安兵衛はそのまま振り返ったきりで動かず。

 

そこでやむなく荒川は「お馬廻役二百石でござる」と身分の詐称をしてその場をしのぎます。

実は荒川のお役は徒歩(かち 徒士)、十二石三人扶持でした。

そのような軽輩身分では、堀部安兵衛は安堵して死ぬことができないであろうし堀部家の恥にもなりかねないと臨機に大ウソで応えたのでした。

 

時がすぎ堀部の三回忌の墓参りの際に二百石取の武士に相応しい装束と中間、小者を(特別に依頼し用意)引き連れて墓前へ。

本堂にても布施を献上します。

死したのちの墓参に於いても、その礼を律儀に守ったところ感動的です。

自らの刀により職務を遂行したわけですが、そこまで死者に礼を尽くす、それこそが現場の介錯人たる者の心得。

そして彼の士分、十二石三人扶持では到底仏前法要の勤修は賄いきれませんので日々内職をしてそれに備えていたとのこと。

 

ところがその法要のあと門前で同じ家中の上司に見つかってしまい、その法要墓参での身分詐称がもろにバレます。

ということで申し開きは殿様直々。御白州に罪人の躰で引き出されてしまいます。

 

最初は殿様の質問にはその理由について語らない荒川の姿。

これも天晴なことですね。亡き人の名誉を傷つけたくないという気持ちが伝わります。

殿様はしつこく荒川に・・・、ここで荒川はその堀部との当初の会話を話すことになります。

ここでまた観客は「一体どうなる・・・」のハラハラ感に覆われます。

まぁ最後の場面は各各ご確認ください。

 

罪人として認定された人間の命、法のもとその執行者として「死」というものに向き合うその重みというか「本物の役職」というものをその「芸」を以って触れることができます。

 

ハンコの件、いかにも腹が立つのはそんなところからかも?

 

ハラを切るには2本差しのうちの小の方。当然です。

通称脇差というものになりますが、表記画像のものは鍔はなくいわゆる鎧通の部類。

銘に備前長船祐定とありますが中村先生の見立てでは偽物(ギブツ)の可能性もありとのこと。

その名「祐定」は個人名でなくそれを刻む刀工はかなりの数(グループ)がありました。

目釘孔で「永〇」と隠れていますが「永正六年-1509年」か?

ピンボケ失礼、刀の撮影は難しい。

 

ちなみに鎧通は鎧武者との組打ちの際、相手の鎧の連結部分、一番に脆弱性ある個所を狙って差し込むという代物。

 

記憶違いでしたらごめんなさい。

以前どちらかの博物館で拝見しましたが顕如の奥さんの如春尼の姉、三条の方(信玄の奥さん)の懐刀も祐定だったかと。