境内作業にベストな日和が続きます。
おかげさまで植木鉢の整理は一通り終わって、後は外置きの観葉植物を地植えのハイビスカスの根元に突っ込んでラッピングするのみ。
この作業は来月中旬あたりでも良さそう。
あと数日の間に報恩講の寺楽市(宣伝せずに内輪でこじんまり)用の焼き芋ドラム缶を引っ張り出し、また燃料等資材の準備にかかります。
しかし昨日、そのイモの件ですが、檀家さんの商店から「今年は高いよ~どうする?」と。
高かろうが「やらない」と言えるワケもなく。
「しゃあない、しゃあない、おまかせします・・・」。
「よきにはからえ」・・・
一向専念無量寿仏の世界にいてその「おまかせ」はいつものフレーズですが、奥方からは「どこまで殿様気分なんだ・・・」と。
財務担当者としては昨日の灯油の件もそうですが、頭の痛いところでしょうね。
先日は三方ヶ原戦より450年ということで境内に建碑を行ったことを記しましたが、昨日は史料館の長谷川氏と数人の教育委員会やら地元歴史関係有志が本堂の見学に。
田沼関係の遺構の再確認というのがその主旨だったのですが、私にも時間をくれとばかりに持論を少々。
それが三方ヶ原450回忌と来年の大河ドラマにあわせて、小和田哲男先生を「い~ら」にお招きしては・・・というもの。
相良にも家康が対した滝堺城や、晩年とはいいながら「相良御殿があります・・・」と。もとはその御殿こそ武田の城砦を継承したというところ。
つい先日、史料館で史跡研究会の小沢氏が「5万円だったよ」と出してきた日光東照宮の文化財図録。
その中で家康が某御殿で寛いでいる図を拝見しましたが、「ここって相良御殿かも・・・」との推測から話が盛り上がりました。
家康眼前に浮かぶ舟の存在から池ではなく堀とすれば相良川(現萩間川)に接する「相良御殿」であっても不思議がないと・・・
専門家の検証が欲しいところですが、私は「不明ならば、何度も何度も続けて主張していれば『歴史』に変わるよ」と無茶を言いましたが・・・。
どちらにしろその絵師は現場でスケッチしたものからであるわけもなくいわゆる想像類推そして踏襲するパターン化した構図に画風。
その類でしょうからね。ただし家光が描かせたその歴史はやはり重い。
画像は昨日と同様、錦織寺近く「重遺恩」の銘。
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