昨日は某所から遠州中部に転居されて来られたご家族の納骨墓前法要に立ち会いました。境内地ではない墓苑です。
ざっと得た情報では家は真宗木辺派、母方が真宗大谷派と筋金入の真宗系。
私はかつて真宗高田派の方と同座の機会を持ったことがありますが、同じ「親鸞教」とはいえ我々のお東(大谷派)の感覚とは少々の違いがあることを気づかされます。
現在といえば十派どころの騒ぎではありませんが、開祖親鸞聖人の教えを継承する古くから「浄土真宗」を名のる諸流は「十ある」といいそれを「真宗十派」などと呼んでいます。
たまたま主流の本願寺が顕如の次世代で時の政治的圧力もあって東西本願寺に分れそれら二流が目立つようになりましたがその分流以前から親鸞を開祖とする宗門が存在していました。
その木辺派の皆さんがたまたま拙寺に依頼をされてきたということですが、念のため「私は大谷派ですが(それでよろしいですか?)・・・」などとつい伺ってしまいました。
とりあえずの違いらしい違いといえば焼香の回数と(木辺派は一回、当流は二回)法名の釋○○のあとに戒名らしき文字列が並ぶこと。
まぁ当流にあっても以前は少々、お西なら普通に現在もそれが付け加えられているようですからそれでOK。
その前に「違いがあってこそ(他者と認め合う)」と皆さんを前に言っていたばかりですし。
私の場合は法名の後に「それ」を加える事は皆無ですが、それって商売上の理由があるとも聞きますね。
「一文字幾ら」の世界がお寺と石屋さんの世界に残っているようです。
先日もある遠隔地出身の葬儀の際、その出身地のお寺さんに法名命名を依頼したところ(私にとっては相当面倒なことですが、その親戚衆に「そうすべき」と強く言われたそうで私がその役を買ったという次第)。その後そちらにその代金の支払いについて「少なくない額」の支払いについてその地に居る親戚衆からあったとのこと。
まぁ地元にいる親類衆にとってその寺への面目を保つことが必要だと思ったのでしょう。
当流では釋〇〇か釋尼○○、希望によっては〇〇院の三文字がその上に加えられることもありますが単純に「法名命名」については生前法名は1万円、葬儀の際は「お金がかからない」(「法名料」の概念がナイ)というのが了解されているところなのですが(院号に関しては志納金が必要です)・・・。
まぁいろいろあるかと。
いずれにしろ私にとっては良き出会いをいただいたわけで、そういった遠隔地から当地に定住されるご門徒さんとの関りは大切なこと。他にも多くの大谷派寺院が存在するのですからね。
さて、久しぶりに近江。
近江野洲の条理について蕉園関りで記したことがありましたがそちら兵主大社近くに遍照山錦織寺(浄土真宗木辺派の総本山)の存在についても触れていました。
10年以上とかなり前の画像となりますが、その錦織寺の画像を掘り起こしてきましたので記しました。
あの時は平原の向こうに見える大伽藍の様、でしたがきっと今も変わっていないのでは・・・
私がこのお寺の境内を歩いて一番に驚いたのは毘沙門天立像が阿弥陀さんとは別にあったこと。
「違いは違い、それでいい」ことは分かりますが普段「一向専念無量寿仏」を口にしている者としてかつては思考が固まったものです。
同じ真宗でもいろいろある。
⑧から。本山東本願寺では御影堂を「ごえいどう」と読みますがこちらでは「みえいどう」読みのようです。
修正されているところから看板屋さんが間違えたのかも。
拙寺では昔から本堂のことを御堂(みどう)と呼んでいて、本山は御影堂と「ご」読み。そもそも阿弥陀さんがいるのか親鸞さんがいるのかの違いなのでしょうが。
どちらの真宗のお寺の堂といえば阿弥陀さんが中心ですから。
御影堂の類は特別のお寺。
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