吉良道を左折幸田、西尾方向へ 道標・常夜灯・六地蔵

昨日は一日中雨。時に強めの降りになっていました。

所用で菊川方面に向かいましたが当然シャツ一枚の気分にはならずたまたま目に入った掛けっぱなしの革ジャンを。

奥方が「それはちょっと(やりすぎ)」との御指摘がありましたがナイスな選択でした。

この気温低下の様はネコの変化を見て一目瞭然。

寝場所を床から椅子のクッションなど保温素材を好むようになっています。

外ネコ舞鶴殿の場合は、日没早々に「早く(玄関内に)入れろ」の如く騒ぎ立てます。夏場は24時頃まで夜遊びしていましたが・・・

 

この寺に一所する熱帯性植物にネコたち、そして私ども、「寒さ厳しい冬」と脅されていますが、何とかやり過ごしたく思います。

 

先日は「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(歎異抄第六章)の語を記しました。

この件、やはり外の人がそれを見た場合「どういうこと?」と思われるかも知れませんね。

 

まぁ歎異抄第六章にはその理由が記されてはいますがその本質他力念仏について理解が及ばないとピンと来ません。

そもそも「弟子」があれば「師」が無いとその関係は成立しませんが「弟子」の名のりはその師を仰ぎ、敬意をもってまた自らの勲章(このような素晴らしい師匠の下にいる)として称する語であり親鸞さんにとってはその件あずかり知らぬということ。

 

師と仰がれる親鸞さんにとってそれを担ごうとする者たちを「弟子」などと思っていない、の宣言なのでした。

よって当流では近年「師と弟子」の関係について(大抵は上下関係の強調)触れられることはまずありません。

ただし大正期の倉田百三の「出家とその弟子」は当時の親鸞ブームの火付け役ではありました。

歎異抄そのもの、それを記した「唯円」が「その弟子」としてありましたからね。

 

昨日記した西方極楽浄土阿弥陀世界との距離と同様にそれを大矛盾として指摘されること多いテーマでした。

それだけ歎異抄が難解であって「表に出さない方がイイ」という考えが長い間あったといいますので。

 

他流やその上下関係の大切という社会ではよくその「弟子」という語を聞きますが私個人的感覚では師たる者が「私の弟子が・・・」などの表現をされた際には違和感を覚える次第。

 

要は主体は他力(阿弥陀如来)であって親鸞当人も皆々も同じようにその教えを受けている身であることです(御同朋御同行)。

 

さて、山中八幡宮について何度か記しましたが、本宿法蔵寺から国道一号を岡崎城方向に、幸田方向に向かうにあたり私は山中八幡宮の手前の山中小学校の交差点を左折して県道324号線「生平幸田線」に入るというのがいつものコース。

東名音羽蒲郡I.C.からのバイパス入ロは案外混みますので・・・

なぜかそこばかり。

その道は「吉良道」とあるように幸田の向こう、西尾や蒲郡に向かうにもよく使用します。この道を行けばまずは幸田の埋め立てられた菱池の東側、廣福寺にぶつかります。

道の名としてその名称は好きですね。歴史を感じます。

 

交差点にはコンビニがあってそこに停めてその看板を①。

バックが小学校の校舎。

そちらから少々進むと右側に道標と文化十年の常夜灯、そして2×3の六地蔵が(場所はこちら)。