昨日お会いした方は「朝からツイてねぇ・・・」と。
自宅の階段で足を滑らせて「下まで」落ちたとのこと。
いつもの愛車の自転車で来られていたので「大したことはナイのでは・・・」とは思いましたが、各所に発生していそうな痛みを堪えている様子でした。
この間「肋骨を折ったばかり」だそうで「まったく・・・」と溜息をついていました。
昨日は本堂の段差で私が転んだことを記しましたが、本堂に限らずどちらのお宅でも最強の段差、階段があったことを思い出しました。
日常に潜む油断がそこにあるのですが、階段の昇降は比較的お気楽ゆえのこと。
私は時にテラスに上がるために備え付けのタラップ(梯子)を使用しますが(布団、毛布干しのため)その時はいつも「いつか落ちる」が頭をよぎります。
いつも必ず「落ちる、転ぶ」を頭の中、それも最前列に置いておくこと・・・それが油断して後から後悔しない秘訣でしょうか。
大丈夫、平気だ・・・そして漫然の気持ちが命取りになります。
テラスの屋上へ上がることは今、控えています。
それは、ヤマバトのつがいが、その脇のナギの木にせっせと枝木を運び込んでいるからです。
ナギの木もボサボサになっていて、そろそろやっつけようと思っていたところでしたが、その件あって剪定も中止した次第。
以前から境内にはヤマバトが姿を見せていますが、何度か代替わりしているようです。
昔の個体は庫裏の玄関にまで入ってきたものもありました。
晴れた日に彼らがのんびりと屋根のテレビアンテナにとまって私どもを見下ろしながらの例の声には和まされます。
さて、昨日の本宿「ほうぞうじばし」から岡崎方面、旧本宿村役場へ戻ります。
すると右側に不動院とその祠が、その道路沿いの壁の看板に古本宿城とあります(場所はこちら)。
城址は不動院の裏手側⑤です。
国道1号と名鉄線辺りの古字に「古城」とありますが、そのまた上方に走る東名高速辺りに主郭があったのかと。
すべてそれらは例に漏れず道路×2と鉄道敷設によって跡形もなし。雰囲気としてはうねうねと湾曲して流れる鉢地川が絶妙な大外堀として機能していたのではないかと。
当時は護岸工事などありませんから河川を中心にした湿地帯を前面にした防御態勢を誇っていたことでしょう。
本宿城の攻防は松平宗家脆弱の廣忠時代。
信光の頃に多くの諸流が発してゆくゆく同族間での足の引っ張り合いが当然の如く起こります。
清康事件以来廣忠-竹千代(家康)とピンチの連続は織田と今川の両勢力の間にあって、諸流それぞれが我こそが松平本流とばかりに存続を掛けたせめぎ合いがあったのでした。
こちらには松平権兵衛重弘なる人が在城、岡崎から廣忠が攻め寄せて落城させたといいます。
⑦⑧の竹藪を見てこれまでの経験から「何かありそう」とは思ったもののパスしました。
あちらこはちょっとばかし顔を出しにくい。
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