清水があれほどの過酷に見舞われているとは知りませんでした。巴川が氾濫して結構な高さまで(家屋一階まで)浸水していたことをニュースで見て唖然。
まさかそれほどの被害が静岡県内に出ていたなんて・・・
あの周辺といえば江尻城・袋城そして専念寺(こちら)周辺を思いますが清水区は断水の継続もまだあるとのこと。
さぞかし難儀を強いられていることでしょうから早々の復旧が望まれます。
あの地はまさに住宅街です。
住宅地に河川があると平穏時には和みというものを覚えますがあの手の豪雨の際には往々にして人への仇となること大。
やはり水害のことを考えると住居近くの河川の存在は温暖化の気候変動もあって相当怖いということを再認識した次第。
「今後の事を考える」との被災者がいらっしゃいましたが住処を変えることも念頭に入れたということでしょうね。
しかし、そのようなことが起こることなど「まさか」と思うような場所ですから。
日本全国この小さな島国のこと、どこかしらでまた「不条理」と遭遇することになりそう。
さて、法蔵寺のある地は古来からの街道(鎌倉街道-東海道)の要地「本宿」で通った地。
江戸期になると大御所関りの法蔵寺領と天領としてありましたが旗本の柴田勝門が天領地に入って本宿陣屋を。
よって柴田氏と法蔵寺がこの地を治めることになりますがその代官職を。そして代官=冨田氏が世襲。
現在に至ります。
現在に至る・・・とは不思議な物言いですが、その本宿陣屋の跡には「木南舎 冨田病院」がど~んと建っているからです。
「木南舎」の名称については①看板の通り。
②の楠に由来する名称です。この木は病院の裏手のスロープの途中から見ることができます。
代官所が病院になっているということですが、その木の向こう側はモダンなレストラン。
時代が移ろいで地上のモノも変わっていく状況まざまざ。
こちらに「冨田病院の沿革」を転記させていただきます。
「岡崎市の東部に位置する本宿は、応仁の乱以前から栄えてきた古い土地です。
冨田家は400年前からこの土地に住み続けており、柴田勝家の子孫に命じられて、代官を務めておりました。
江戸時代に街道が整備されたときに、東海道が冨田家の前を通ることになり、とてもにぎやかなところになりました。
病院のすぐ隣に徳川家康が幼少期に読み書きを教わったという法蔵寺という由緒正しいお寺もあります。
冨田病院は、初代院長・冨田丈次郎によって明治36年に開業、当時の本宿村に地域医療の礎を築きました~。」
コメントをお書きください