吉良荘一色 安休寺 一色氏発祥の碑

息子のコロナ感染について。

うまいこと完治宣言してくれて仕事に戻っています。

同居人も続いて回復したとのことでまずは安心させられました。

先日までは喉の不調の継続と未知なる後遺症の出現について不安が頭をよぎりましたが、仕事に復帰できたことは何より。

これは若い連中の回復力の良さなのでしょうね。

かといって酷い後遺症で苦しんでいる例も各聞こえてきますので、たまたま得られた上々なのでしょう。

 

さて、昨日は吉良荘の名産雲母(きらら)について記しましたが、一色の産物といえば今は雲母の採掘はないようで海産物にに鰻にお茶。遠州に近い産物になっています。

①は一色のえびせんべいの店の棚飾り。勿論所望しました。

 

そして吉良氏といえば足利義氏の系です。

義氏の子長氏が吉良を名のってから。

吉良氏の所領のうち室町初期に矢作川を境にして西と東に分かれ(西条と東条)て同族間での抗争が始まってしまいます。

応仁文明の乱に至っても東西に分かれて争う始末。

これは他の勢力に付け込まれるにもってこいの状況になるわけです。

家康が三河統一となった、その利があったことは優に推測できるところでしょうね。

 

親というものはその兄弟に「末永く相互に補完し合って家を盛り立てて欲しい」との意思で領地を分割し分家を興させるなどままありますが時としてその願い空しく相互に牽制し争って弱体するというのもその歴史。

その例がこちらにもあったといいます。

 

室町幕府内でも最有力系統の吉良氏でしたが、その分家筋の今川氏(吉良長氏の次男国氏が幡豆郡今川庄を領してからの名のり)に屈服させられ隣国尾張織田からも攻め立てられるなどいわゆる旧態依然の領国経営もその「家」というものの存続への障害になったことでしょう。

 

一色氏は足利義氏の嫡男足利泰氏の子一色公深から始まります。吉良荘一色の地を本貫としたので一色氏。鎌倉時代のことです

ちなみに義氏の子らに斯波家氏、渋川義顕、足利頼氏、石塔、上野、小俣、加古の名もあります。公深は七番目の男というわけで。

 

 

室町期、一色氏は幕府の「四職」(他に赤松・京極・山名)の一家にも数えられるほど足利家でも顔役、いわゆる名家中の名家です。

 

昨日記させていただいた安休寺雲英家表札の番地を今一度記してみます。「一色町大字一色字中屋敷二番地」です。

普通に考えてこの安休寺あるいはその周囲に一色家の屋敷(城塞)があったことを推測してしまいます。

 

②画像は寺の門前へ通じる道ですが、通りから入って直線ではナシ。この手のクランクは寺には不自然。喰違虎口の痕跡かなどと考えてしまいます。

③④は安休寺に隣接する場所から。

一色氏発祥の地の標があります。

 

概略転記すれば

「一色氏始祖公深は~

足利奏氏の七男 桜井判官代俊光(その娘が奏氏妻、公深の母)の所領吉良庄の地頭を譲られ・・・」。

この公深の奥さんが上記今川国氏の娘ですね。

まったくもって登場人物が多すぎて複雑すぎ・・・