人間社会、特に政治に地球上の自然まで不条理が満ち満ちています。
ということから世の中は人々の愚痴の数々に覆われているのですが、思うに世界の極度の乾燥と大雨洪水の両極端で喘ぐ人々の姿を見て「中位ってものがほしい・・・」などと声をあげたくなります。
ブログでも以前「中の字」(こちらも)について記しましたが先人たちの「そうあればいいな・・・」の願いというものも伺えました。
それだけすべてこと、人の思うように事は運ばないということですね。
自然というものの猛威には人はただ「まかせる」他はないわけですがあまりにもその両極端の現象には人々が苦しむことになります。
乾燥日照りの水不足は農作物の生産に打撃を与えますし山火事も頻発、集中豪雨による大雨は人命ほか家屋家財を喪失させてしまいますからね。
気象庁の当たらない天気予報(昨日は今年の梅雨明け宣言を1カ月遅くするという発表がありました)に猛暑だ雨続きだとボヤいていますが私のいる遠州南部はそれでも極端異常には見舞われず、いつも「中位」といった具合。
これはこのうえない仕合わせを戴いていることですね。
有り難い、有り難い・・・
問題は人の質、特に政治屋の・・・。
票のために自国民を異国のインチキ宗教に蹂躙させて食い物にさせるなんて・・・毎日テレビはその話題で一杯です。
さて、昨日は古墳の上から幸田の野場方面を眺めたのでしたが、この野場には城址といわれる場所が2カ所(野場西と野場東)ありそのうち昨日記した画像⑤の街道左側の丘の向こう側スグのところに野場西の城がありました。
街道を南下してくる行軍を待ち受けるに絶妙な場所になりますが、夏目吉信が一揆側として家康軍抵抗していたのがこの野場西から本拠の六栗城までの地域だったかと。
まぁどちらかに追い込まれて捕縛されてしまったのでしたが。
そもそもこの「野場西城」と周辺地を差配していたのが大須賀一統でした。
現状もこの地域には大須賀姓が散見されますね。
ちなみに昨日も記しましたが近くのお西の寺、専光寺の門前の商店には「大須賀」の看板が目に入りました。
遠州ではその名を聞けば横須賀の大須賀康高。
そしてその名、大須賀といえば善福寺でした。
こちら野場の地が大須賀氏発祥と言われています(場所はこちら)。
土塁は外周道路からそれが円形だったことを思わせますが北側によく遺ります。
土塁上を上がりたくなる衝動にかられますが、昨日の古墳と違って民地、住宅地になります。
⑤の看板は以前は民有地奥⑥に立っていましたが現状、外周の道路前に移されています。
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