秋の気配、季節のうつり変わりの迅速(~無常迅速)をしんみり思っていれば昨日は朝からドカっ晴れて、日差しカンカン、夏真っ盛りの相良でした。
境内にはやらなければイケない宿題が山積ですが叔父に送付を依頼されている品に少しばかり変わったものを同梱して送ろうと買い出しへ向かおうと奥方を誘いました。
洗濯物を干したばかりの奥方を連れ出したのですが、もし最近のあるある、突然の豪雨(記録的短時間大雨・・)が来たら・・・とその「責任を取らせる!!」を思わす表情がありました。
西の方から黒っぽい雲が迫っているところ、まんざらその件「ありうる」と不安になりましたが、同時にスマホで雨雲の流れを注視する奥方があり「雨雲は静岡より北を通過」とせかされることなく無事帰宅、洗濯物をとりこんで一件落着。
降られずによかった・・・
夜間10時過ぎに雷鳴がありました。翌日の予報は降水確率90%になっています。
昨晩はNHKの番組「不登校やってきた2」を視聴。
子供たちの声の数々を聞いて、ただただ「オレたちの時代とは違う」と圧倒させられました。みんな賢そうなのに・・・もありました。
文科省のデータによれば2020年度に不登校だった小中学生が19万6127人。不登校の数は8年連続増加。統計開始(1966)以来、過去最多でその更新は3年連続とのこと。
今は学校に行かなくてもいい「それも選択肢の一つ」という考え方がありますのでそれはそれで「まぁ、いい」のでしょうが、親としては心配になるでしょうね。
私も学校など「行きたくない」と言っちゃあ行きたくないところでしたが、「行かない」の選択肢とやらは「絶対に」といえるほどありませんでした。「這ってでもイケ!!」でしたね。
私などサラリーマン時代の会社では2度骨折して2度とも会社を休まなかった武勇伝、「這ってでも」派でしたから「あれがイヤ、これがイヤ」の今の子供たちのその理由を理解するに多少の時間を要したものです。
根性論全盛それオンリー美化された時代でしたから親や教師に「NO」など言える時代ではありませんでした。
まぁ時代が変わったということでその件、ひと先ず呑み込んで子供たちの言い分を聞かなくてはなりません・・・
これまでその理由についての総括、先生と学校側のその評価について一言で言えば「無気力」(登校しない生徒の)だそうです。
そこに理由アリのような気がしますね。
教師側学校側がその語で以っての処断、「責任は当方にナシ」感がぷんぷん匂ってくるのです。
例の日本的というヤツですね。
ホントに親身になって耳を澄まし彼らの言うことが聞こえていないのだな・・・ということ、それがわかったような。
不登校の理由が一律「生徒の無気力」ということだけで片づけてしまうこと、それこそ無責任。
ヤル気になれない理由を探してその解法を探してあげて欲しいものです。
しかし比較的「一人が好き」で「人がキライ」の傾向がある中問題は簡単なものではありません。
私は「御堂と墓と念仏」そして「三昧」(メディテーション)で彼らの心が開けられないか・・・などと思ったのでした。
ただ子供たちがゲームに依存している姿を見るのは気持ちが悪いですね。話をあわせることもできません。
これからどうなってしまうのでしょう。
つくづく思います。教師にならなくてよかった・・・と。
奥方からは「そもそもお前には無理。ただ一緒に遊ぶだけ」と しかし子供というものは遊びには歓びを見出しますからね。
今の子供はガツンと怒ったり命令されたりするのは嫌うようです。まぁいつになっても私は人に頭があがらないので・・・
姪がよく言っていました「ドジ・バカ・マヌケ」と。
それでは学校指導者としてはやはり無理かもね。
子供が100人いれば100の性質がありますし。
以前は坊さんの若いころといえば教師というのが定番だったのでしたが・・・
さて、先日記した夏目家菩提寺の明善寺の前住?(いやその前か)もたしか高校の教諭だったと聞きますが、お寺の護持に難しい時代を経ているといいます。
それが三河地震(昭和20年)に伊勢湾台風(昭和34年)。
その後者によって明善寺本堂が「甚だしく」損壊したそうです。
三河のお寺たちには本堂、鐘楼、山門に補修の跡や補強材の存在が目につきますがこれらは地震と台風によって苦しめられた歴史があるからですね。
津波だ地震だと静岡の皆さんはその恐怖のもと小さいころから言われ続けられていますが、三河地区の皆さんはここ100年の間自然災害にきつく痛めつけられていたのでした。
あの夏目家三代の墓碑も昭和になって前住職が建てたといいますが墓碑紹介文の記述の「幕末頃」(文政六 1823)のものといえば碑文のみで石塔はナシだったのでした。
それが「大松三本是ハ右御三人廟所の松」「御廟所御墓木」ですね。
そしてそれがあった場所といえば、現在のお寺(場所はこちら)の南側の道路を挟んで向かいではなく、門前を北に、東に折れて少々の住宅地の角④⑤⑥にあったといいます。
①は南方向②はその逆方向。
③はお寺に隣接する北側の川ですが意味合いとしては堀として機能していたのでしょう。
⑦は近くの小さな堂。
石塔が建てられなかった理由は勿論夏目家の懐事情だったのでしょう。松前奉行として任地赴任とあって世情も「それどころではない」状況(異国船打払令、シーボルト事件・・・)ですからね。
お墓を新しくする時間も経済的余裕も夏目家には残っていなかったということでしょう。
それを引きずってようやく前住の悲願、三者の墓が建碑されたのでした。
夏目家家系から出たあの著名な夏目漱石もそちらの方の整備には興味がなかったのかも知れません。
ただし、来年の大河ドラマ出演決定、家康の命の恩人として描かれることはわかりきっていますのであの墓はその回のドラマ最後の紹介コーナーで三方ヶ原の碑とともに登場することでしょうし、それに感じ入った視聴者のお墓参りも増えるはず。
幸田の教育委員会(久保田城で登場)ではきっとそれを迎える準備が淡々と進められていることでしょう。
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