首を洗って待て 湯水の行水 鳥居忠広と成瀬正義

今年七月の盂蘭盆会法要、私の挨拶の中で、脳溢血や血管系の発症について症状をあげ、それらが出現、感じたら「躊躇なく救急車」の件を吹聴していました。

ところが今、世の中は救急車が出払って尚、病院も満床でてんやわんやと聞きます。

「救急搬送困難事案」増加に「病床使用率」静岡115%と。

 

不注意の事故も病気も「今は待て」。

といっても「まさかの坂」は「待ったなし」ですからね。

「しゃあない、しゃあない」で誤魔化すしかない。

運のあるなし・・・ということか。

 

ここ数日テレビから聞こえてきたフレーズで耳に残存しているものが「死んでからも税金のムダづかい」と「首を洗って待ってろ」でした。

前者は都内のデモ参加者の掲げたプラカードに記されていたものですが「うまいこと言いやがる」と感心してしまいました。

 

今一つがその脅迫の意思表示らしい語。

この台詞は時代劇やギャング映画でよく聞く決めことば。

まぁ「捨て台詞」の一種で相手をビビらそうとするのが第一義ですね。

 

しかし日本のサムライ世界では率先して自ら首を洗ってキレイにしておくことは一つのマナーと言ってもいいのでは・・・。

他者に言われてそれを行うものではありませんね。

何故なら討取られて首実検に挙げられた時に、首回りが垢だらけでうすら汚れていれば「恥辱」を感じたからですね。

「なんだこの小汚ねぇ首は・・・」などと揶揄されるのはかなわない。死したあとこそキレイに首と躯を遺す・・・です。

 

以前ブログで木村重成の配慮について記しましたが、自身が討た

れ、死したあとのことを慮る・・・常に自らの「死」というものを予測、意識、念頭に入れて事に向かうという姿勢があったということでしょう。

私も大きな仕事前(今は葬儀式)に食べ物を口にしないところ踏襲しています(首を落とされた際食べ物が逆流して見苦しい)。

 

講談に「湯水の行水」という演目がありますがその主役があの二人、鳥居忠広と成瀬正義です。

昨日の画像、夏目を一人置いて居並ぶご両人でした。

私はあの状況を初めて見た際、お隣同士にしないで、一人おいて並べていることにそんな配慮があったのかも・・・などとニヤリとしたのでした。

 

要はその二人は仲が悪かったということです。

元亀三年の信玄の西遠州の浸潤(三方ヶ原戦い)に二人と家康の間で籠城が迎え撃つかでの激論があり籠城を主張する鳥居に成瀬が「腰抜け」と言ったことから険悪な雰囲気、それがエスカレートして屋敷がお隣りさん同士の双方が刀を抜いたという創作です。

 

自分は死を恐れることはない、首を洗って(キレイにして)いつでも斬り死にする覚悟ができているのだとの主張。

そして寒中行水してのやせ我慢大会になっての挙句斬り合いに発展し酒井忠次に止められたというストーリー。

一昔前は止め役は本多忠勝でした(創作だからどうでもいい)。

とんだおっちょこちょいのマヌケ役になっている正義の役どころでした(→ 忠義あれど悋嗇で短慮 ?)。

 

画像は豊原国周の役者絵。

以前の、片桐且元と顕如の図もそう。

かつてはそんな演目があったのでしょう。

見てみたい。