拙寺九代釋祐厳実家 刈谷安養寺の三つ引紋

昨日の法事開式は11時30分から。

よってクマゼミ大合唱下の発声は回避できました(→昨日)。

彼らの習性なのでしょうが朝の一通りの合唱が終わると昼をまたいでの休憩タイムに入るというのが常。

夏の法要、本堂開式について11時頃が丁度イイと思った次第。

10時開式ですと彼らとの対峙、張り合わなくてはなりませんから。

 

施主からの依頼でこの日は先にお墓参りをしてから、本堂で本法要になりました。11時に菅山区の山上の墓地からがスタート。

先日にこの山の墓地に参った際は降雨あとでしたので、施主には「スニーカー履き失礼」とその許諾を事前に頂いたほどでしたが、昨日は「2度目の梅雨明け宣言」と吹聴したくなる絶好の「山上日和」。涼し気な風にトンボも飛び交う林の中、ウグイスの美声に酔いながらとことこ山道を上がります。

しかし草履に足袋の出で立ちでこの急坂を上ることは、結構にふくらはぎに来ます。

道中着ながら法衣で、草履と地面のスリップ+足袋と草履のスリップという2つのリスクとストレスで上り下りの1セット、法要前にいい運動をさせていただきました。

 

ここの墓地は数ある墓地の中、難所ではありますが、こちらで墓地を各管理される家の皆さん方もその「苦痛」を口にしています。

「若いころは良くても齢を重ねるとキツイ」と。

墓参を敬遠したり「下で待ってる」等々よく聞きますからね。

 

さて、昨日記した拙寺代々の羅列について左側ナビゲーションに「道場-寺-継承の歴史」として転記追加しました。

思いついたところを適宜追記していくことにします。

 

その「歴史」の中で九代祐厳について。

天保十三(1842)に亡くなっていますが、彼の知性というか「頭が良さそう」なところはお城に上がって講師として、また知性溢れる一橋代官の小島蕉園(こちら)はじめ駿遠ほか各知識人との交流から察するところですが、単純にそれについては悲しきかな私には「伝わっていない」と思うところありますね。

 

その人の実家が現刈谷、海上山安養寺。

先日は三河を中心にした当流岡崎教区の寺院のうちその姓について羅列(トップスリー 本多-安藤-石川)しましたがこちら安養寺の三浦姓についても4件ほどありました。

特にそれぞれの関連性については不詳ですが、こちらの「三浦」に関しては当ブログで記す「三河武士団」と単純に片づけられないところがあります。

 

「三浦」と言えば鎌倉殿の三浦であって地名としては相模の三浦半島を思い出す通りですが、その家が大元であるといっていいでしょうね。三浦といえば今川配下のそれもありますが現住との会話では開基は「鎌倉からうまいこと逃げてきた」とのことでした。

 

そのあたりの経緯についてはかつてのブログ

「味知」との遭遇 三浦雅楽之助 誓願寺』にてコメントとそのお応えを記していますのでさらっと見廻してみてください。

 

「宝治合戦で鎌倉から不明になっていた三浦四郎家村の子孫が居を構えています。家村は三浦泰村の弟です。」の記述も。

 

墓地、軒瓦の紋、お内陣各所に三つ引き両が光っていますね。

「家」(ご先祖様)を意識しているところ大いに伝わります。

三河武士団の寺、数ある中「先祖伝来」の主張はもっとあるべきと思いますが・・・

まぁ寺としての役割は「そこではない!!」というのはわかりますがね。