「私は正しい 争いの根はここにある」

静岡4734(牧之原市33人)。トーキョーは勿論断トツ。

どこまで行くのやら・・・スゴイ・・・

子供の発症が多くて、子供を学校に出してウィルスを持参帰宅、親や祖父母に感染させるパターン多し。

 

最近は法事の「大量動員」というか以前の如くに縁者を集めることが多くなっています。

お斎も開催されるようになっていますからね。

さぁ、これからどうする・・・

小さい子供と同居している家は辛いね。

そしてそんなお宅にはお参りに行くのは躊躇してしまいます。

自宅仏間の法要もこの二か月で2件ほどありましたが、これからはまた「ご自宅敬遠」に戻すべきか・・・

 

さて、昨日の続き。

親鸞さんの「恩徳讃」は真宗寺院堂内でよく見かけます。

要は「歌詞カード」のようなもので、法要の締めで「さぁ・・・」などと皆さんで歌う場合、それがぶら下がっているのは親切ですからね。

その歌詞には音符が付くわけですが真宗限定というか、他流でそれと遭遇することはあり得ないとは思うところですが、当地のJA系の葬祭場の出棺の際、霊柩車から流れてくるのがその当流恩徳讃の音。歌詞はありませんが、当流の坊さんが耳にすればスグわかります。

 

真宗ご門徒限定とは思えませんが、他流の葬儀に立ち会ったことはありませんのでそれはよくわかりません。

ただし、出棺のバックミュージックとしてマッチしなくもないので、それでOKかも。「如来大悲~」の主語含めて本来の歌詞について他流の坊さんにはわからないでしょうね。

 

本願寺派の徳応寺(場所はこちら)。

「どなたでもお参りください」の旗がたなびいていて一層お気楽に本堂へ上がりました。

やはり本願寺派のお寺となると私の如く野暮で「らしくない」(奥方)「小汚い」(亡父)坊さんにとっては、その漂う拙寺とは違う「高貴さ」なのでしょうが少しだけですが緊張がありますね。

 

そちらにも「恩徳讃」がありましたが、私が初めて拝見し、歓んだのが「南無」の二字の額。

南無の文字の下に阿弥陀仏。

二つ合わせて「南無阿弥陀仏じゃん・・・」。

「あえてよかった~」の言葉もインパクトがあって良いですね。

 

私に一番に迫った言葉が掲示板の「私は正しい~」でした。

先日の司馬遼太郎の言う通り。

しばしば「残酷」な振る舞い、そして結果となることも大いに承知しています。

 

しかし、国会ギインさんたちの演説は全部が全部「私は正しい~」ですよねぇ。それなら浄土に行ける輩は一人もいない・・・。

閻魔さん(浄玻璃鏡)に聞いてみればスグわかるでしょうね。

ハイ地獄行き~。

私は浄土真宗でよかった・・・「南無阿弥陀仏」。