本堂内は物凄い湿気。
先日まで水位低下、渇水、水不足、節水の言葉が行き交っていましたがそれら「今は昔・・・」の様。
また日本の自然は「変化に富む」とはよくいいますが、精神衛生上この環境の継続はいかにも良くありませんね。
早いところまともな夏の到来を望みます。
障子をあけ放ちカラッとした空気を吹き込みたいものです。
まぁそうとなれば日本中、暑い暑い、熱中症で救急車・・・のこれまでとは正反対の如くの言葉が聞こえてくるのでしょう。
まぁ人間というものは勝手なもので。
毎度適当な事を年がら年中言いながら、時に何か、とんでもないことをやらかしますからね。
現代でいえばロシアとウクライナの戦争などがいい例です。
「人間は、自分は絶対に正しいと思いこんだ時、最も残酷な事をする」(司馬遼太郎)-先日の法性寺住職の記述-から。
そして国家レベルの「正しい」が一番タチが悪いということを理解しています。
日本も明治以降、色々とやらかしましたから。
さて、先日のNHKの三河一向一揆の番組でさらっと登場した像を。
高さ4.2mの台座の上に5.3m高の巨大像で私がこれまで見てきた家康像でその類を知りません。
2019年に出来たばっかり、東岡崎駅と乙川の間にある施設のデッキにそびえ立ちます。
「岡崎こそ」の気概が手に取るようにわかる代物で、来年はさぞかし名所として本格的に全国デビューするのでは・・・
近くの岡崎城については何回が拙ブログに登場していますが、ここで例の「日本城郭大系」岡崎城冒頭部分から。
「矢作川と菅生川の合流する地点、龍頭山と称する丘陵上に初めて城を構えたのは三河守護職仁木氏の守護代、西郷弾正左衛門稠頼で享徳元年(1452)から康正元年(1455)の頃という。
その後、西郷氏は大永初年の頃まで代々居城したが、西三河賀茂郡松平郷から興った松平氏の力が増大し、特に清康の進出の前に西郷氏は松平氏の麾下に入った。
そして清康はこの城を拠点として東三河から尾張方面にまでその勢力を拡大し、のちの家康による国内平定までは、松平氏の一時代を築いたのである。」
と松平岡崎前段階の経緯を纏めていますが、これは家康登場以前のお話ですね。
ブログでは岡崎城月見櫓のところで「今川義氏一門が吉良、
今川、一色、仁木、細川・・・」とその系を羅列していましたが、松平氏が田舎の土豪から「さぁこれから・・・」とばかりに既存の勢力を押して世に羽ばたく前夜ということになります。
巨大像のある場所は位置的には現岡崎城公園の乙川対岸になります(場所はこちら)。
この地の地名は「明大寺」。
かつてやはり西郷稠頼による明大寺城があった場所で松平が岡
崎に進出する以前といえば明大寺城のあった今の東岡崎周辺が中心地だったような。
乙川の川端から画像(後から二つ目)の六所神社にかけてがその城の縄張りの推定地。
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