昨日は2件の「脳溢血」の症状についてお話しを聞きました。
双方とも命はとりとめたものの後者は退院後1.5カ月ということで現在リハビリ中。
前者の場合、発症は今から「27年前のこと」といいます。
重篤で後遺障害が残りやすいその方のそれは脳梗塞でしたが、余程初期対応が良かったのか、以降の療法が適切だったのか(その両方・・・)後遺症の類はナシ。
少々の不便といえば初期の発症時のトラウマから自動車免許を返納したことだそう。以来自家用車を使用しない生活が始まったということですが、その当初の発症こそ車の運転中のことで、突然、視界はあるが「暗い気分」になったこと、ブレーキを踏んでも車が停まってくれない(実際にはブレーキペダルに力が入っていない・・・)ことから「これはマズイ」と思って電信柱に車を衝突させて停車させたというもの。
その際、近くに居た人がその近くの病院の医師だったという幸運、すぐさまその病院に担ぎ込まれたというものでした。
極端に言えば病院の前でそこの医者の目前で発症したということになりますが、そのようなことは滅多にないことですから私たちはその手の「出会い」を期待することはできません。
後者の方は私と同い年。昨年、脳出血で突然倒れました。
仕事を終えて帰宅、まずは風呂に入ろうとしたところ手が震え出して昏倒したそう。
発見されるまでに前者の方より時間がかかっていますが、運よく近隣の方に発見されたとのこと。
退院できたのが1.5カ月前で私が自宅に行くと「リハビリ週3日」で頑張っている姿を見せてくれました。
ゆっくりのんびりでいいので人間本来のレジリエンスを信じ
確実にリハビリメニューをこなして行って欲しいものです。
さて、子供の数が少なくなったということでお稽古事の教室や学習塾の経営が難しくなったということを聞くようになりましたが、それは将来の人口減少を意味していますのでその放置はいずれは国としての体裁も取れなくなってしまうことが推測できます。
当相良辺りで見廻しても空き家と売地だらけでその「人がいない」の変異はひしひしと迫っている感あります。
私の「ハカ・テラ・シロ」行脚で実感するその手の傾向の一つの語彙に「廃寺」があります。
お寺としての長い歴史を閉じようと結論を出すこと、それはまず「苦渋の決断」の類になるでしょうがその「廃寺」こそ寺としての活動が終わるということで、人の死と同様のこと。
真宗寺院の場合は血縁関係で継承されていきますので、代々受け継いできた名実ともに「血縁」となる先祖の思いを自身の代で絶つという決断をすることになります。
先日は縁戚関係にあった順成寺について記しましたが(厳密にはまだ廃寺にはなっていない・・・)真宗寺院はまずは後継者不在というのが一番の理由です。
裏を返せば「もはや食べていけない」ということで、継承者をムリに引っ張ることはできたとしても要は「サラリーマンのように仕事に出た方がマシ」という感覚です。
生涯続ける天命であると考えたとしてもクールにも敬遠されてしまうのです。
現実的視点に立てば当然かも知れませんね。
そしてまたその大規模建築物、本堂の維持修繕の経費の捻出が重く圧し掛かってきます。
かつての拙寺でいえばたとえば御上(幕府)に泣き言を言えば何とかなるかも・・・という期待もあったことでしょうが、今は面倒を見てくれる者といえば檀家さんだけ。
よってそこのところは檀家さんの家数の多少によって変わってくるものです。
人が増えればそれは将来的に期待ができることですが、それはもはやムリ。
「さぁ、どうする」とまでに今のところは「切実」とはいえないものの、やはりそこも「おまかせ」するしかありません。
人口減少の対応策として海外からの移民を増やすという意見がありますがそもそも仏教に馴染んだ皆さんではありませんからね。
まぁお寺の住職がそこのところ全般に文句など言えません。
仏教と寺の衰退を招いているのは私の如く「アホぼん」の責任なのかも知れませんから。
昨日は幸田坂崎の平岩姓について記しました。
私はその近く、坂崎の東、久保田という地の聞入寺についてさらっと調べたことがあります。
当初その名称「聞入」を見た際、やはり真宗寺院だろう・・・という推測をしていましたが、ビンゴでした。
念のため岡崎の教務所に問い合わせましたが、そこは案の定「個人情報」ということでサラッと一蹴されました。
当たり前といえば当たり前、寺として相手が同じ寺であっても「余計なこと」については口を閉ざす・・・
他のスジからの情報によれば2008年頃廃寺になったとのことですが、本堂はボロボロで幸田町で土地ごと引き受けて解体したそう。
墓地等も多少はあったようで、近隣の寺に収容されたようです。
この聞入寺が建立された時代について知ることはできませんが、三河一向一揆時代までは久保田城なる城塞があったというのが通説ですので寺として成立したのはそれ以降になるかと。
ただし、寺そのものが城塞化してその拠点となることは珍しいことではありませんので、それ以前から道場として人を集めていたことも考えられます。「聞法道場」が真宗寺院のスタートですからね。
当初の伝承として相当部分に混同があるのかとは思いますが面白いのは石川正俊なる一揆方に味方した武将が廃城寸前まで入っていたことが伝わります。
その「石川」に三河石川一統の流れが推測できますし長因寺、蓮泉寺、法行寺の如く石川姓の寺との関係も思量できるところ。
そしてまた聞入寺の住職の姓は・・・と言えば「平岩」(昨日)なのでした。
まだまだ首を突っ込んだばかりで掴み切れていませんが三河が奥深く面白いと感じたところですね。
画像は久保田城跡といわれる聞入寺廃寺跡の段丘の図と内部。
立ち入り禁止の看板がありますが、幸田教育委員会にこちらへの進入については許可了解済みです。
私は、何故にして町がこの廃寺の山を買い受けたか・・・について疑問ではありますが。
伝承の久保田城遺構に価値を見出したのか・・・
ハッキリしきれないところがたくさんあって地味というのがそのイメージですからね。
④の四角い建物が「幸田久保田ポンプ場」それならばグーグルマップに出ています(廃寺あとの場所はこちら)。
石垣はまさかの一部「打ち込み接ぎ」の美形の残存遺構があります・・・悪くない技巧を思いますが問題は積まれた時期。
そして掻揚げの堀底通路としては広すぎる・・・いや後世の改修もありうる・・・などなど謎多し。
コメントをお書きください