人生はネガティブで当たり前 明来暗去 長因寺再掲

映画の中のセリフから。

C・イーストウッドの若いころのおチャラケ戦争映画(1970「戦略大作戦」)からです。

 

「慎重な意見」を発する者に「また、君は悲観的な事を言う~・・・」の如くの反論を連発する戦車隊長のオッドボール軍曹、ネガティブ発想が大嫌いな超楽観主義者でした。

 

ハチャメチャ映画のなんでもアリのストーリーでしたが、その人物の無茶苦茶ともいえる超楽観の性質があまりにも印象深く、そのポジティブ思考を見習うべきものと悲観を嫌う人生を歩んできた私の頭の中に常にあるキャラクターの一つでした。

 

途中何度か視聴する機会はありましたが、半世紀以上前の映画のそれも主人公ではナイ人物のセリフが頭から消えないで残っているというのは余程そのキャラが気に入ったということでしょうね。

 

ただし、そのポジティブ思考、それこそが自分を着飾る方向性、そうあるべき趣向であったことがわかってきたところです。

それは偏に年齢を重ねた結果なのでしょうが、本来そのポジティブもネガティブもセットであるというのが人生ですね。

私は時にそれ(人生)を(おぎゃあと生まれて)「出された定食」であると形容することがあります。

要はそのトレーに出されたそれぞれを完食しての人生であるということ。

子供たちがいる時には「好き嫌いは言えないのだよ・・・」と添えています。

 

陽と陰、プラスとマイナイスが双立しての人生。

モーターの回転の原理はSとNが引き合ったり反発したりの連続で生まれるように。

よってこの件、ポジティブ思考だけでは回っていかないというのが結論となりますね。

 

ただし自身の疲労度が蓄積しないように「陽」を着飾るようにでもOKなのでドーパミンを増やすよう振る舞うことは必要ですね。

「振る舞う」というのはそもそもが人間は悲観的に思考する生き物であってつまるところ現実もまたその期待とは程遠い結末を迎えることが多々あるからです。そしてまた「それはそれでしょうがない」ということでは納得しているもののそれだけでは、人間は病んでしまうものなのですから。

よってある程度の「自己の演出」が必要になるのです。

オッドボールの楽観を取り入れながら、同時にネガティブも受け入れて面白おかしく人生を歩きたいものです。

 

さて、先日また木戸の長因寺にお参り。

西三河に用事があって立ち寄りました。

前回記した際に、三河の寺院に当たり前の様にある本堂前のツートップの灯篭について、「明来」と「暗去」の文字を。

 

先日

 

「無碍の光明は 無明の闇を破する 恵日なり」

 

という教行信証の言葉を引っ張って灯篭の文字「破闇」について記しましたがそれはやはりそもそも人生は「闇」の如く暗い(超ネガティブ)ものである・・・と言っているのですね。

それを阿弥陀さんのお日さまの如くの法縁の「気づき」を得て(他力)「生き抜こう」のテーマがメッセージとしてあるということです。

灯篭に記す文言だからこそその手の文字が記されているのでしょうが、今回のお寺の掲示板を見て再びその灯篭の件、記したくなりました。

和讃にも燈明(阿弥陀の光)の偉大さについて語られています。

 

「無明長夜(じょうや)の燈炬なり

                智眼くらしとかなしむな

    生死大海の船筏なり

            罪障おもしとなげかざれ」

 

ネガティブであっていい。ちょっとだけ「陽」を意識して・・・

あとは「阿弥陀にまかせる」ただそれだけ。

 

ちなみに夏の講のチラシが貼ってありますが、その開催場所が私の祖母石川文子の実家の法行寺。

先日、法行寺住職にお会いする機会があってそれを聞いたところ、長因寺の石川姓も石川台嶺の蓮泉寺の石川姓もその関係は「よくわからない」とのことでした。

 

掲示板にはネコとイヌ。

本堂の外縁で休む老ネコ。

背中に阿弥陀、まかせて安心して眠る姿。

寺にはネコが似合うのか・・・