相良小正門 二の丸土塁裏の原標 小島蕉園先生の名

朝から横殴りの酷い風雨。夕刻過ぎても。

本堂脇のスリッパは飛ばされるは、縁側は水浸し。ロクな日ではありませんでした。

ユリの鉢たちが倒れているのはわかっていましたが、起こしたとしてもまた倒れることは必至。仕方ないので放置。

翌朝まで我慢してもらいます。

鉢だけではありません、他に何か問題が発生していないこと願います。

 

そして午後、叔母の新しい介護認定の通知が来ました。

事前に施設担当者から「ヤバいよ、ヤバいよ」という具合に脅かされていたのが、最近になってことに叔母88歳の具合が絶好調の件。介護不要の「ひょっとすると退園」ということでした。

そしてその認定は市から派遣された各家庭事情など加味されない「厳然、機械的」判定ですから。

よって「次に入所できる施設を探しておいて・・・」と宣告もあって、強烈な面倒な「試練」を覚悟していたのでした。

 

現状、「要介護3」ですが「格段なる復元」ということで「要支援」へのレベルアップがあったとすれば退所ということになるということです。

絶好調といっても車椅子から解放されたワケではありませんので、「とりあえず自宅」ということになればまず超絶ムリのレベル(私の身勝手ですが)。

拙寺庫裏は段差だらけ、殆ど迷路のお化け屋敷。

風呂にトイレは車椅子での通行などを想定したつくりにはなっていません。

 

当人も今の施設を大いに気にいるようになって「毎日楽しくお気楽に」過ごしていますので今更違う環境へ変わることはそのことが「致命的」となりかねません。

 

相当ビビって届いたその書面を開けると「要介護1」認定。

ギリギリのセーフでした。すべてが丸く収まったということです。

独り住まいから集団生活に移って痴呆具合が改善したのですが、そこでも「人間」(人との交流の中)という生き物が「生かされている」こと、よくわかります。

 

さて、昨日の相良小学校の裏の現場からの石の移動の件を記していましたが相良小学校の正門を。

相良城の遺構と言われる二の丸土塁の開口部が今の相良小学校の正門ですが、その正門入ってスグ左側にさりげなく建つ石標があります。

 

昭和六年の建碑ということがわかりますが、小島蕉園の墓の位置を記すというところ、今考えると結構唐突に感じます。

この石標を建てることを進めた人たちは江戸末期から明治生まれの方たちでしょう。

小島蕉園先生とあるように当時の相良の人たちの蕉園への畏敬の念を感じます。

 

今の相良小学校の先生たちに「この人誰ですか?」と聞いてみたくなってしまいました。

毎日この門を出入りしているのですからさすがにご存じのこととは思います。

いや、つまらぬことことを・・・と怒られてしまうでしょうね。

この知ったかぶりの坊主が・・・と。

 

①②の後方の建物が相良高校校舎。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (火曜日, 07 6月 2022 16:16)

    「叔母上の体調良好のうえに施設継続決定」の最高の結果に、外野席ながら介護者を身近に接した者として安堵しました。
    相良小学校の石標は、数十年振りに思い出させていただき感謝しています。片浜小学校を最後に4分教場はすべて廃校となりましたが、菅山小・萩間小・地頭方小は今後存続するのでしょうか?・・・廃校によりバス路線も少なくなっているため、児童・保護者とも通学負担が大変だと感じています。
    小島焦園に関するリクエストとして、大江の不動山墓所と旧駿遠線脇の石碑を是非紹介願います。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 07 6月 2022 20:52)

    ありがとうございます。
    教場・・・古い教育施設の呼称ですが最近は聞かなくなりましたね。寺子屋と似たようなものだったのてしょうが地域地場の緊密性をもって運営してきたものですが、今や効率中心。
    集約統合が進んでしまいました。
    街に出ないと教育が受けられない・・・どこでもおなじなのですがね。