昨日はたくさんの学びがあった日。
平成四年に幼少児教育の道に専念すべく菊川平尾の西林寺を廃して活動拠点を現在の堀之内幼稚園に完全移行した藤本照雄氏が逝去されて、私は菊川の葬儀会場に初めて出向きました。
藤本氏は西林寺の最後の住職でしたが以後私が耳にする園長先生、理事長先生の語の方が馴染み深いものがありました。
最近、体調がすぐれないということは菊川在住の檀家さんから聞いていましたが、私としてはもっとたくさんの事を伺いたかったと後悔の念も沸き起こります。
私は開式時間より1時間ほど前に到着。
ご家族の方たちに事前に面会、挨拶をしました。
無沙汰の失礼をお詫びし、御悔やみを。
葬儀は「内陸ルール」。
ご遺体前で葬儀をして葬儀終了後に火葬場へ。
その後葬儀場に戻って換骨の七日法要を行うというものですが、脇僧たる私は葬儀式のみでの解散。
ご家族縁者にはお話ししたいことは山ほどありますが、ここは自重するところでした。
よってほとんど仕事らしい仕事もせずに帰路につきました。
尚、その「内陸ルール」に対する語が当地区の「沿海ルール」。
要は先に火葬して遺骨の前で葬儀式を執り行うパターンですが、導師のご理解では「海難死者が多いから・・・」それに対応するためと。
説得力あるご説ですが、私はそれだけではなく「たまたまの習慣」だと思います。
それにその「沿海式」だと火葬場可動の時間が午前早くからになって、件数が増えても対応が利きます。
とにもかくにも式進行について「私と違う」ことばかりの発覚。
きっと私のやることなすこと、ダメダメなのでしょうが、「通夜に勤行をしない」「出向かない」「通夜は脇僧」「通夜は法話だけ」「火葬場勤行には行かない」等々のお寺さんのやり方もあるとの件。
省略系「やらない」と思われがちの各お寺ごとの習慣(お寺グループの分業制もあります・・・)が見受けられる中、とにかく「手厚く」は私の初心からの習慣ですのでそれだけは継続してやっていきたいところです。
私の如く時間を持て余しているのですから、「全部」を私の手で・・・です。息子が来たらまた考えます。
さて、昨日の太郎左衛門系の墓域とは別に初代太郎左衛門、松平親氏の墓がそのさらに先の石垣と階段のある「高い場所」にあります。
向かって右が松平家二代の奏親の墓。
看板の通り「宝篋印塔」であることは間違いないところですがいずれも完全な姿でない「残欠」に近いところ、かなり妙です。
腑に落ちませんね。
徳川の息がかかっている時代であれば大切に管理されたであろう墓石です。やはり維新以降の試練があったのでしょうか。
それとも・・・。
また隅飾りの開き具合からいって江戸期に入ってから新調されたのかも・・・などと思うところ。
コメントをお書きください