昨日は史蹟研究会の会合がありました。
ある方から「ここへきて体調があまりよくない」と浮かぬ顔。
私もパっとお顔を拝見すれば、覇気がなく「いつもと感じが違う」を思いました。
詳しく問えば「70歳中盤になると色々あるのだ」と。
とにかく今一番苦しんでいることは「眠れないことと便秘」とのことでした。
便秘に関しては「喰って運動で解消」と一蹴しましたが、問題は前者の方。
要は「精神的不安定」を推すものですが、その方と同い年の方がそれを聞いて「最近は『縊死』ってヤツあるからな・・・」と。
冗談のつもりでその方はその語を口にしたのでしたが、てっきり「一笑に付して」くれるものと顔を今一度見ると、いたって神妙な様子。
よって深くその「理」を聞き直してみればコロナで行動限定が当たり前となった世の中、人との交流が無くなったこと、おそらく社会との隔絶が長くあったからだろう・・・と自己分析されていました。
「この場が滅多にない楽しみになっている」とのことも。
私はその談に少々の不安(鬱の前兆)を感じ、内心拙寺の「メディテーション」に参加してもらいたいものだとは思いましたが、それは抑えて、とにかく(人には船が転覆しそうになっても復元力があるように)復活・回復する力をそもそも持っているものだから、それを引き出させるようスイッチングできればイイ・・・などと話しました。
スイッチング、コントロールの訓練がその「メディテーション」ですからね。
それは日常の訓練で徐々に身に付けられることですが、とりあえず「うまいこと」対応していくには「楽しく面白がって平気に生きる」よう仕向けることですね。
付け加えておけば「頑張る気などさらさら持たずにありのままに」。
さて、二上山法蔵寺。
「二上山」の山号といえば奈良當麻寺と同じ。
やはり法蔵寺が真言→浄土の流れにありました。
本宿国道一号線からスグとあってのんびり行脚の際は「参拝」していく・・・というのがいつものパターンです。
岡崎教務所に向かっていたとしても東名高速岡崎インターで降りるのではなく一つ手前の音羽蒲郡で・・・という感じ。
山門前の様相は「浄土」的レイアウトになっています。
まずは家康関りの「松」がお出迎え。
松平氏だけにあの「二葉松」ではありませんが、松は徳川を語る一つのアイテムですね。
そして鉢地川(結構に離れていますが矢作川水系)の赤い欄干のある橋を渡ります。
尚、川の名称は本宿法蔵寺より南側にある「鉢地(はっち)」という地から。
文字通り「鉢の底」の如くを形容したのでしょうが、その川が削った谷の如くの地形になります。
法蔵寺前を流れる鉢地川を「三途の川」に見立て橋の名を「来迎橋」山門の向こうに浄土があって阿弥陀のお出ましがあるといった形になっています。
①④の如く六字名号が光っています。
コメントをお書きください