以前、小島蕉園の記した文書「祐公令子名説」について記しましたが、「祐師住院僧也父祖無男皆以義子」の通り、拙寺は男子誕生に恵まれず義子・・・養子を以って寺を継承、ギリギリのところでその法縁を繋いでいたという経緯がありました。
過去帳を眺めてみれば明らかですが・・・。
過去帳が残っているということもなかなか奇特なことでもありますね。お寺によっては焼失等によって「まったくわからない」ということもありますから。
在家では古い時代のそれらが判明できるということは滅多にないことでしょう、まぁ寺ならではのことですね。
寺というものの婚姻の相手先は嫁を娶るときも養子を迎える時もまず「寺から」というところは当然だった時代です。
私の祖父くらいまではその傾向が強くありました。
ちなみに祖父も姉が3人、ようやく生まれた末っ子の長男でしたので曽祖父らは「娘の誰かに義子を・・・」と腰を上げようと思っていたところようやく男子(祖父)が生まれたといいます。
また個人レベルで婚姻(お相手)が決めるなどあり得ない時代でした。要は嫁も婿も在家の「家対家」の如く「寺対寺」条件の元決めていたのです。
ある意味、その手の希望する「人」の有無について、情報ネットワークがあったということは凄いことだと思いますね。
個人(子供)の意思など全くナイ時代でしたから、今の如く性格の一致だとか人間関係だの面倒な配慮もナシ。
存在するものは先方の家、または寺、そして苗字をもって決めていたことがだいたい判ります。
きっとコレと決めたとしたらトントン拍子でスンナリ物事が進んでいったのでしょう。
そして義子の場合は過去帳にその出身寺院が記されていますからわかりやすいのですが半面嫁入り、嫁に出た場合は殆ど先方の情報には触れられることはありません。
それを女性蔑視で怪しからんなどとお怒りにならないでください。まったくそういう時代でした。
寛政譜など女子の場合は殆ど無視レベルでしたね。
「女」はまずどうでもイイというのが常識の時代。
拙寺七代住職の祐信は文化二年(1805)に九十二歳で亡くなっていますが祐信も拙寺に婿入りし大澤寺の血脈継承を担った者の一人でした。
実家は三州(現西尾市)龍照山順成寺です。
その年齢から逆算して20歳頃に相良に入ったとすると1730年頃の話で今から300年ほど前。
私が「三河」それも西三河にその思いを寄せるのはその地域を筆頭に多くの縁者、ご先祖たちの存在が推測でき、またそちらの土に触れ、空気を吸ってきた人たちであるという思いがあるからですが。
ブログでは以前、安城の水井山法行寺の石川文子や清水の堀江山専念寺(ナビゲーション)の曽我滝江について記しましたその女性たちは当山への「嫁入り」でした。
何故に女子であるにもかかわらず判明しているかといえば明治から大正末と比較的近い時代だからですね。
順成寺からの義子祐信については当家過去帳にそのように記されています。
私は4~5度ほどそちらの本堂裏の墓地にお参りに行っていますが(幹線道路-西尾吉良線-から近く 場所はこちら)、驚いたのは本堂にお参りしようと思い立った時、既に無住寺院になっていたことが判明したからです。
それを知った時は「しまった!!」と思いましたね。
何故ならいずれは住職にお会いして「お話でも・・・」などと考えていましたから。
その手のことは何時でも可能であると先延べにしていた私の甘さがありますが、私が聞いたところでは最後の住職は私の父と同い年の女性だったということ。
とっくに亡くなっていたようです。
跡を継ぐどなたかがいるものと思いきや、それは叶わなかったようです。
おそらく住職を亡くしたあとにピンチヒッターとして寺を継承していた様子、父と同い年とすれば今は94歳ということですからね。
私は門前にある市立こども園に寺の敷地(駐車場)を貸しているということから元総代か代表の管理者にさらなる情報を得ようとそちらの園長先生にその旨を伝えておきました。今のところ連絡はありません。
今後深堀りしたいところですが・・・教務所は「個人情報」として口を閉じるのは致し方なし。
拙寺の血脈を繋げようと義子を出したその寺が300年後に住職不在になってしまうなど私の後悔もありますが(事情を聞けない事)寂しいことでした。
⑦の墓石から推測するにその方が住職とあったとすればとてつもない苦労があったことが推察できます。かなり早い時期ですからね。
住職を亡くされたあとスグにこの墓碑を建立し法務を継承したということでしょう。
周辺に置かれた宝篋印塔の相輪部分や五輪塔の残欠を見て、その地と寺の歴史の深さを感じました。
アレには室町期を推測してしまいます。
尚、順成寺代々、姓は安藤。
法名に「祐」が入っていますが拙寺や専念寺の法名の通字でもあります。
何故かこの「祐」字の法名は目につきます。
コメントをお書きください