岡崎城 胞衣(えな)塚 ご誕生ありがとうの記念碑

昨晩はNHKスペシャル

「見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」を視聴。

「知の巨人」と言われるあの人の科学への探究心には圧倒されますね。

生涯勉強しつづけた人という感じ。真似はできません。

 

こんな会話がありました

立花 「人は何のために生きている?」

インディオの酋長 「人は死ぬために生きている」

 

未開のジャングルのインディオのその人生観にショックを受けていたようです。

師の場合自らの死を含めその時を「無」として結論づけていますからその未開(未文化・未文明)の社会にいる(勿論彼が信奉する「科学」とは縁遠い)人々の言葉として心に残ったのでしょうね。

 

案外、師の場合、科学思考にあって宗教思考には逆に縁遠かったのだな・・・と思った瞬間でした。

科学から哲学的思考に至ったということなのでしょうが、そのインディオの酋長の言った「人は死ぬためにいきている」的発想はきわめて仏教的であって、私などは今更その「生と死」の相関(時にコインの裏表の如くある)について「なるほど」とは思いません。

仏教世界にいればずっと長く言い古されてきたことですから。

 

刹那の時間に生かされ今ある命をただ精一杯にやり遂げるだけで感謝して生きるのがそれであり、師の如くあまりそのあとのこと(人類の進化であるとか)の「難しいこと」・・・要は「わからないこと」に思いを振らずただただ阿弥陀に「まかせる」他はナイという達観です。

 

永遠を「見たい」などとは思いませんし人や知の進化など考えもつきません。

私などひねくれ屋はこれから人間はピークアウト、退化の道を進むかも知れぬとも思っているくらいですから。

まぁそれはプラスチックと薬剤過多の環境ホルモンに暴露し続けた人類があるというちょっぴり科学的見地に立った私見ですが・・・。

 

死んだら無であるから「遺骨はゴミ箱に捨ててくれ」の言葉からもその意思についてわかりますが、逆に言えば死んだことが無いのにそれを「無である」と決めつけるのは実証的ステップを常とする科学の道から外れているとも思えますね。

遺骨を「ゴミだから捨ててくれ」の精神は自身の潔さ、人生未練の無さの主張でもありますが(そもそもそれは法的にムリな話ですね)日本人の文化への無理解があったような気がしないでもなし。

 

あまりにも偉大な知者にあまりにもチンケな田舎坊主が物申すことの身の程知らず。

おこがましいものがありますが、お許しください。

 

さて、師の言う「一人の人間の生きてきた残骸」・・・遺骨をゴミと一緒に処分することになれば、私のブログのタイトルの「墓場」や人々の営み・・・いわゆる奥方が言う「勝手にしろ」(ハカ・テラ・シロ)については無意味ということになってしまいますね。日本人のやってきた歴史とは何だったのか・・・です。

 

ということで本日も。

三河に戻って岡崎城の胞衣塚です。

 

胞衣塚(えなづか)については掲示板の通り。

要は偉人の誕生を後付けで祝福しようという意図ですね

普通のヒトからすれば胞衣はゴミ箱ですが。

 

①が胞衣塚に向かう道から後を振り返った感じ。

石垣の上が主郭。