昨朝、何の気なしに点けたテレビから笑福亭仁鶴が現れました。
昨年御年八十四歳で亡くなった上方お笑い界の代表者であり成功者ですね。
連れ添いを亡くして12年、相当に精神的にヤラれたといいます。
体調を壊したのもそれが遠因とも・・・
よく「時間(の経過)」が解決してくれる・・・とは言いますが師匠の場合はそうはならなかったとのこと。
私も時としてそういったニュアンスでお話をすることがありましたからドキッとさせられました。
その事実は決して心から離れることはないですからね。
自身生かされ続けるということはそれだけ近しい者たちを見送る機会が増えてくるのですが。
連れ添いというものは自分にとっての最大なる理解者ですから逆の立場(自分が先)の時はそうならないはずだ・・・と思っていても実際に男が独りぼっちになると、耐えられないところがあるでしょうね。
それが男の弱さなのですね。常ひごろ何もかも任せっきり頼りっきりのわが身ですから、そのことが起これば、以降何から何まで自身で始末しなくてはなりません。
見送ってからその大変さが身に染みてわかるというものです。
何より愚痴を聞いてくれる者が不在になるというのも痛い。
私の見ている限りその「逆の場合」(旦那が先)となると奥様の方は独り身お気楽、のびのび溌剌の様多々ですが。
その仁鶴が「座右の銘」として挙げたのが「みてござる」の語でした。ちなみに私のそれはカッコよく「捨ててこそ」とはどちらかで記した覚えがありますが。
師匠のその「みてござる」についてその意味を「観客それぞれが・・・いつもみている」(よって気を抜くことなく毎度しっかりやりなはれ・・・)のような受け取り方をする人がいますが、私はただそれだけではないと思うのですがね・・・
私の思うそれは(師匠の宗旨について知りません)そもそもそれについて当方宗旨的に阿弥陀仏を主語とする考え方がありますので「阿弥陀仏はいつも私をみていてくれる」という風に解釈したくなります。
南無阿弥陀仏の名号にそれが含まれているとも。
それは私の守護者でもあり監督者でもあるということですね。
勿論阿弥陀仏はどこにでも「おはします」ので「観客席」にもいるワケです。
よって噺家として手抜きなどあり得ないことは当然の事、緊張感を持ちつつ、一所懸命に事にあたりなさいという意味も含まれるのは当然でしょう。
私どもはこの社会にあって一挙手一投足、常に「みられている」ことを念頭に行動しなくてはならないということでしょうか。
それでいてどうしようもなくダメ駄目な私がそこに居たりしますがそれもまた阿弥陀仏は「まってござる」というのも当流の宗旨。
私は師匠の「みてござる」はやはり仏となった彼の連れ添いが「今の私をみてくれて、待ってくれている・・・」などとその短い番組の中ピンときたのでした。
たくさんの仏たちに「みられている」と考えるのが腑に落ちます。
さて、ブログは長島から離れられなくなってしまいました。
そちらの信行寺なる蓮如さん由来の大谷派のお寺にはその二つの語がお参りの方々に主張していました。
水盤の隣に巨大な自然石。その語が左右対称に鎮座していました。
門前の言葉
「仏法に明日ということはない
今日の尊さ 今日のありがたさ」
もまさにその通り。
毎度「迂闊な私」・・・頭が下がる思いです。
「明日がある」と当たり前の如く思い込みがち・・・
世界でも日本国内でも命は儚いこと常に見せつけられています。
掲示板にありますようにこちらの山門は長島城の城門を移築したものだったとのことですが、あの伊勢湾台風で倒壊してしまったそう(場所はこちら)。
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