昨晩、福島の富岡町も揺れていました(福島震度4)。
最近また頻繁に地震が集中しているようです。
そののち22時30分頃に東京都内も震度3が。
ちょっと気持ちが悪い・・・
先月の29日NHK BS1スペシャル「福島モノローグ 完全版」を視聴しました。
あの地震と津波によって原発事故が発生したのでしたが、住民が避難する中、残された動物達(ペット、畜牛、馬、豚など)のためにたった一人故郷の富岡町に居続けた松村直登氏の物語でした。
国の言う「一律殺処分」の方針に逆らってただただ「動物愛」と故郷への思いからの反発だったのでしょうが、心情は大いにわかりますが並みの人間にはできない事です。
エサ代金をネットを通して依頼し、その活動しているようですが、また「集めたからにはやめられない」と、動物たちが天寿を全うするまでは責任を持ちたいという姿がありました。
彼のバイタリティはさらに除染作業により荒廃しまた草ぼうぼうになった土地を一人で耕作しなおし畑やら田に戻そうと奮闘していたこと敬服に値します。口にされていた色々なボヤキの語からその大変さがわかりました。
除染作業とは表土をさらって土を入れ替えることですが、国が行ったそれは田も畑も大きな石だらけとなって、耕作はまずはそれらを取り除くことから。大変な仕事です。
ショッキングだったのは地元では高価なキノコの収穫も、未だ高汚染が続いて食するに適さなかったことと、牛の親子の餓死の件。まったく気の毒な事です。
松村氏が今も後悔しているとのことでしたが、それは他人様の牛小屋だったために柵を外さなかったこと。
累々の白骨が映されていました。
ウクライナの件もそうですが、自然災害など人々が避難するといっても一緒に暮らしていたペットたちはどうなるのだろう・・・というのが疑問です。
「殺処分」・・・嫌な言葉。お役人らしい・・・
さて、あの拙寺の掛け軸裏表に記された色々について記してきましたが、多くの歌たちの冒頭にあるのが雲華院大含の五絶。
この人もまた易行院法海と同様高倉学寮の講師だった人です。
高倉学寮は一言で東本願寺の僧侶、特にお寺の子弟のための勉学施設。
その発祥は江戸初期1665で大元は本願寺境内にあったものが渉成園(枳殻邸)に移ってしばらくそちらからそう離れていない高倉通に移った学寮が「高倉学寮」です。
現在の大谷大学の前身ということですね。
尚、そちらの「講師」というと現在の感覚と違って「学長」の如くかと。
その高倉学寮の講師の8代目と9代目としてその二人が記されています。
学寮期の歴代講師
8 易行院法海(1828年 - 1834年)
9 雲華院大含(1834年 - 1850年)
雲華院大含も易行院法海同様に九州の人。
九州の門徒寺といえば私のかつての修練での同僚が茶髪、ピアスの出で立ちというインパクトある登場が思い出されますがその地は真宗の賢者を多く輩出した地でもありました。
易行院法海は豊後日田(大分県日田市)の長福寺、雲華院大含も豊後満徳寺に生まれて豊前古城正行寺に入った人ですね。
二人とも頼山陽との関りが共通してあったようです。
その雲華院大含が記した五言絶句があのお軸の冒頭に記されていました⑧画像。
雲華院大含については前書きに「大含嗣講師」とありますので
その「講師」になる(天保五年)前のものですね。
彼はまた書画を嗜み、特に「蘭」を題材にしたもの多数の様。
この詩からもかなりの蘭好きが伝わってきます。
私は詩歌についてサッパリわかりませんが、こちらには韻踏みの妙があるのでしょうか。
「豊前国正行寺雲華院大含嗣講師読蘭 五絶一首」
軸の並び
「蘭也今最幽家亦夫蘭
幽々蘭与幽家此中
幽又幽
壬」
五絶
「蘭也今最幽
家亦夫蘭幽
幽蘭与幽家
此中幽又幽
壬」
いつもの叔父の解読によります。
何故にこちらが寺に遺っているのかは不詳。
雲華院大含も江戸に赴いているといいますから拙寺に立ち寄っていることも考えられますが。
①~⑥が高倉会館。
かなり以前の画像ですが今は幼稚園になっています。
一声掛けて図々しく入館させていただきました。
大きく平たい堂の奥には「貫練堂」の扁額が光っていました。
現大谷大学の学生寮に「貫練学寮」がありますがその語はしっ
かりと伝承されているのですね。
①はお寺の掲示板の如く。
「思いどおりに なるものだ というところに
迷いがある 安田理深」
こちらは分かりやすいのですがやはり難しい。迷いだらけで・・・
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