一昨晩から昨早暁くらいまで「豪雨」と言ってもいいようなまとまった降りがありました。
一番の心配はやはり庫裏西側の雨漏りの件。
午前一時すぎまで該当箇所とその下に置いたバケツの中と睨めっこ。
その段階で雨漏りがあったとしてもどうにもなることではありませんが、これまでの対応策が的確だったのか、気がかりでした。
天井だけに「天に任せるしか」となぜか電気を点けたままにして結局就寝しました。「見ているぞ!!」の気概でしたが・・・
翌朝、期待と不安の気持ちで寝床からすっ飛んで来てみれば、雨漏りはまったくナシ。
風向きによって吹き込み方向が違ってきますのでまだ、本当の安心にはなりませんが、まずまずの嬉しいお達しとなりました。
第2の懸案、前日に対策を施した物置小屋の雨漏りの方も何とか功を奏したかの感。
雨漏りの解消は何よりの仕合せでした。
さて、本日は拙寺文書から「祠堂金」について。
今風に言えば檀家さんにお願いする堂宇修繕積立金のようなものでしょうか。祠堂銭、祠堂銀などの呼び名もある歴史用語。
拙寺には今その手のシステムはありませんが以前より世話人会にて「検討するように」との提案はあります。
何かあったときに備えるということで今後の課題であることは間違いないところです。
その檀家さんから集めたお寺管理の資金・・・祠堂金は檀家さんに金利を取って貸出するシステムがあったのでした。
管理がしっかりしていればとても素晴らしいカタチです。
信金・銀行のようにも感じますがそれでいて「徳政」の借金公然踏み倒しOKのくくりにはないという特権です。
以前拙寺は薬の販売をもしていたことを記していましたが祠堂といいつつ金子を集めて運用まで。
今で言えば出資法(出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律)のシバリが一応ありますので「不特定多数」の対象者を募ったりすれば「お縄頂戴」のおそれがあるようなことです。
その祠堂金の文書とはいわゆる借用書ですね。
「預り申す金子之事 一金拾両也
但大沢寺様 祠堂金之内
右之金子只今慥ニ請取り忝申処
実正ニ御座候返済之儀者来十一月晦日
限り急度元利共返金可仕候為後日仍
如件
天保七申三月
借主横町 五兵衛
証人 九兵衛
大沢寺様」
天保七(1836)横町の五兵衛さんが借りたお金十両の件、九兵衛さんが保証人となっていることがわかりますが、横町の九兵衛さんといえば山崎家の御当主ではないでしょうか。
現山崎善道氏、元TDK会長の貞一氏の家系と推測します。
過去帳によれば五兵衛さんは天保十四年に四十三歳で亡くなっていますがどちらのお宅か判然としません。
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