浜松城直近 犀ヶ崖(三方ヶ原古戦場) 本多忠真の碑

全国の自宅療養者数過去最多。

都内のそれは92832人とのこと。

肺炎など症状が重くても自宅で酸素投与を手配される事案が多数出ているといいます。通常ならば病院で診てもらわなくてはならない人々ですから日本が医療崩壊しているということ。

ずっと「ピークアウト」の希望的語彙をやたら使いたがる社会でありましたが、現実はまだまだお付き合いしなくてはならないという様子。

 

先日は子供さんが学校でもらってきたウィルスのために自宅で感染してしまった方からメールをいただきましたが、10日間の自宅待機を余儀なくされています。

幸い熱は38度程度とのことで「軽度」を思わせますが、快癒しするまでは用心が必要ですし、その後に発現しうる得体のしれない何かについては不安でしょうね。

 

注意しなくてはならないところはたまたまその方が軽度で済んだとしてもその症状の出方はまったく違って、極端な結果に分かれること多々あること。

感染しても未発症の人もいるワケですから軽々にこのウィルスは「軽度である」(だいじょうぶ)などの言は慎むべきでした。

その二文字を耳にしたら「人間」はそもそも「私は大丈夫」の生き物ですから、社会全体の雰囲気が浮かれてくるのです。

決して緩んではイケない時期にその「安心」に繋がる言葉を吐くのは親切でも優しさでも思いやりでもなく、ただの詭弁といいます。 

 

昨日は風呂場の扉の隙間風について記しましたが、我が家には毎度使用後は風呂の湯を抜いて(防災上不利とにりますが)窓を全開にして乾燥させるというルールがあります。

脱衣場の戸は乾燥機で押さえてそのタイマースイッチを入れますから風呂場、脱衣場は外気と同じになります。

問題は脱衣場との扉からの隙間風で冬場の風の強い時など、強烈な冷気の侵入を感じます。

ということでその対策を試みたのでしたが、「まだまだ」の感。対策再試行となります。

空気の流れとは単純に言って気圧の違いではありますが、バカにすることはできませんね。

 

当家の隙間風の流れを見ていて「空気感染」の妙、雑多な人々が混じりあう場所にいることのリスクを想像した次第です。

 

さて、岡崎欠城について記しました。

推定地「東公園」付近でその公園に三河という地を代表する偉人たちを敬礼していく姿勢、特別な地であることを感じさせられました。

やはり今は遠州という三河にない私の勝手なイメージとしてその地の「代表者」たる人物を記せば本多忠勝にほかなりません。

家康も、岡崎三郎の名の通り、その地を代表する名のりとするその息子以上に、「本多」が思い浮かんでくるわけで。

特に当家では代々「釋尼妙意記」の存在とその記述を見聞して、まさに耳にタコ。それこそ「岡崎=本多」なのです。

私が聞いてきた通り、以前は息子にもそんな話をしていましたが、きっと今頃はすべて頭の中から消え失せて日々の繁忙の中に埋もれているのでしょう。

まぁ、コロナというような制約はなかったにしろ私のそのころも同じようなものです。

 

昨晩、息子に昔の画像のアップについて了解を取り付けるメールをしましたが、今のところウィルス禍に翻弄させられることなく活発に動き回っているようです。

首都圏の特殊要因で「自宅お内仏」での法要が多く、私の本堂主体というのとは空間の大きさ、と外気流入の多さという点で雲泥の差。みなとみらいの高層マンションからの景色の良さを自慢していましたが、「よくもまぁ・・・」ですね。

都会では「法要を繰り延べにはしない」傾向のようです。

 

画像は欠場で本多忠勝の叔父、三方ヶ原戦で討ち死にした本多忠真の碑がある浜松の犀ヶ崖です。

現、浜松城の北西に位置して私も年間1、2回程度、浜松界隈の法要等でよく使う道際にあります。

交通量は比較的多い場所で交差点が近く、見落としがちになりますが駐車場もトイレも用意されていて気が利いた資料館です。

まさかここで徳川勢の窮鼠の罠にはまって武田勢が多く命を落としているとは・・・

 

画像①は2007年のもの。私ども家族が横浜から越して来たのが2006年と記憶しています。

成瀬藤蔵正義の成瀬谷、宗源院へのお参りの際にブラっと立ち寄っていますがその際は息子らも一緒でした。

数珠を持ち合掌のポーズでした。

 

他は最近の画像ですが資料館もその周辺もその頃よりずっと新しくキレイになっています。

日が陰って石碑の文字が読みにくく残念、そして失礼。

この忠真がいなかったら忠勝の雄姿も見られなかったのでしょうね。