朝起きて室内の寒暖計に必ず目をやりますが昨日は久々11℃と二けた。「暖かい・・・」のプレゼントを頂戴し有難く感じました。
ここのところ5℃という日々が続いていましたので。
秋口に20℃が18℃に下がった時、「寒くてかなわん・・・」などと思ったものですがその10℃代前半に温かさを感じるとは人間の感覚はなんと曖昧なことか。
ただし私は氷点下世界については論外。
昨日も記しましたが、当地南遠は滅多に氷結はありませんからね。私はそのような環境下での生活はムリですし冗談でもさらさら味わう気はナシ。
「一所懸命」とはいいますが、私どもの系の初代、権七(浄了)は近江安土を捨て新天地を求めて当地に来たことなどそもそも土地への執着などなく、一向専念の信心一つのみ。
もし私がその(土地を放棄する)踏ん切りとは何か・・・と問われたら、まぁ、他にもいろいろ条件はあるにしろ、とにかく気温が低くなったりしないということ。暖地であるということが条件ですね。
まぁ温暖化ということもあって氷河期ようなものの到来は私の生きている間には無いことを願います。
さて、城跡歩きをしているとその周辺の寺や神社というものにも目が行きます。
長沢の岩略寺城など城の名がお寺を連想する名ですし、全国にも「寺・・・城」をイメージするものは各地に見えますね。
大坂石山本願寺もまさに城郭以外の何物でもないという寺と町の集合体でした。
かつての城の主に関わる寺などその城に付属するようにあるものですね。
というワケで私は城址をほっつき歩いたあと、まずその近くに寺の有無を確認します。
先日記した登屋ケ根城の大手道手前を横切る川沿い、殆ど城の真ん前ともいっていい場所に慶寿苑なる名称の墓地がありました。
堂や祠はなし、墓標がちらほら、いわゆる分譲墓地の類でしょうかその奥に少々の古めの墓標が集められた域がありました。
五輪塔が中央に一基、何かを主張するかの如く、というかかなり奇怪としかいいようのない容姿で立っていました。
左右には卵塔の数基と江戸期のものを感じる石塔が。
墓たちの載る基盤はごく最近の改修が思えます。
卵塔は寺の坊さんの墓ですからそれが立っているからには堂があるはずですがどこを見回してもありません。
そういう場合は往々にして廃寺ということを想像するわけですね。
私はこの墓域を訪れてから帰宅してネット上で探索してみました。
すると「東三河を歩こう」なるブログに行き当たりました。
そのページ「慶忠院跡・関口一族の墓」には私がブラっと入った「慶寿苑」墓域に元あったといわれるお寺についてのページが。
どうやら以前は長寛寺(ちょうげんじ)なる本来の関口家の菩提寺があってその寺の跡地に慶忠院が建ったようですね。
そのサイトには平成二十三年の「宗教法人合併公告」の画像と元あった関口一族の墓、堂と祠などが紹介されていたのでした。
ということでその慶忠院跡(場所はこちら)を。
そそっかしい私のことですからその一族の墓について見落としたのだろうと思い、是非にお参りしたいと再度長沢の地を訪れ今一度周囲をくまなく探しました。
しかし竹藪やら雑草をかき分けての探索は徒労。
終いには近所の家にヘルプを求めました。
すると昔からそこには「戦いで敗れた者たちの墓」があったが、
合併廃寺後になくなったとのこと。
その画像をお借りしたものが最後のもの。
少なくとも七基の五輪塔が見えますが、現状の墓苑には一基が見えるのみ。
その件現場でお聞きしても合併先の住職へ・・・とのことでした。
「もしかして処分・・・」などの声がありましたが、私は「まさか・・・」。もしかしてあの観音堂の脇に転がっていたものか・・・などとも思いつきましたが・・・
しかしこの登屋ケ根城のほとんど真ん前というこの場所に「関口家の~」の説得力はかなりあります。
何故にして動かしてしまったのだろう・・・と疑問に思うばかり。
残念なことです。
また慶忠院という寺は元は国道一号線上にあってこちらに移されてきたといいます。
住職が一人で居たが亡くなってから寺は取り壊された・・・とのこと。ここへきて人の営みの無念残念と虚しさが繋がってしまいました。
来年の大河ドラマは折角の家康もの。
松平と関口の関係はまず描かれるところと思われ、お墓があれば名所となったはず・・・それも残念。
尚、「東三河を歩こう」はこれからも参考にさせていただきます。ありがとうございました。
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