陽射しはナシ。しかしなから無風の一日でした。
風がないだけで幸福な気分になれた遠州です。
このド田舎牧之原市の新規感染者が63人(静岡県1390)となろうとも境内はいつもと変わらぬ太平なる空気。
鳥の囀りに紅梅がちらほらの様がそれを演出、ありがたいありがたいと言いつつ庫裏に籠りっきりになっていました。
基本皆さん、「自分が罹らなければそれでヨシ」(勿論私もその口・・・)で、「罹っちゃったら罹っちゃでそれはそれでしょうがない」のノー天気スタンス。
要は「緩々 ゆるゆる」の人心とそうさせた無能の政治がその礎。いよいよ「制限より開放」の開き直りの世風も勢いを増してきます。
いっそのこと「高齢者と弱者を始末」という意向なのでしょうか「弱い奴は勝手に罹って勝手に死ね オレは生きる」の如く。
そううまいこといかないというのが仏の教えでした。
先日焼津(昨日は96人)在住の方と3回目のワクチンについて話しました。勿論私はまだその順番の来る齢ではありませんが、牧之原では一通りその予約はできるようになっていますね。
皆さん「モデルナしかない」とは言っていましたが、その焼津については何故か「遅れている」とボヤいていました。
どの目が出るのか知る由もありませんが、せめて賽くらいは同時に振ってもらわなくちゃあ。
「行政まかせ」もフェアじゃあないね。
私は「あなたまかせ」はいつもの通り。
さて、岩略寺城(長沢山城)のつづき。
長沢という地は東西三河の境と昔から考えられていたようです。
当流の感覚で言えば真宗系が多い岡崎を中心とした西三河との境界。
東海道を抑える地としても着眼されていることは大いにわかりますが、平安期あたりまでは現在のその東海道とは辿っている道筋が少々違いました。
先日も記した宮路山を通る山岳道が旧々の東海道でしたね。
万葉集にもその景色良さげの自然世界が詠われていますが、まさかあの聖徳太子の井戸の伝承の場所に私が立った時、そしてあの宮路山の放浪のあとだけに、なんでここが東海道・・・の疑問は生じるくらいの林道感溢れる道でした。
現在のバイパスやら国道1号線のある場所は「実は湿地帯だった」と聞きますからそれを迂回しての街道だったのでしょう。
戦国期には宮路を通過しない平たんな街道が整備されていたのでしょうが、その東海道と旧の宮路道を抑える要衝という意味でこの長沢の山城は必要不可欠だったわけですね。
それでは城郭大系の記述を。
「一説に細川成之が三河守護の時代、文安(1444~1449)の頃に関口経国の子孫、関口刑部少輔光興によって築かれ弟の長沢次郎直幸がこれを守っていたが、長禄二年(1458)西三河の松平信光によって城主長沢氏は攻略され、信光は子の親則にこの城を与え、以後親則は長沢松平氏の祖となったといわれる。
しかしながら、信光の攻めた長沢の城が長沢山城なのか、平地にあった長沢古城を指すのか、それを考証する史料は乏しい。
長沢の地はその後も松平対今川の争点となっていることからも両氏のいずれかによってこの城は維持されていたとみるべきであろう。」
要はこの関口氏の系が駿府今川の関口であり、長沢の「関」の
「入口」から名を「関口」としたというくらい関口といえば長沢なのですね。
その関口氏から出た築山殿の事を思えば、松平-今川そして信長に翻弄させられた人々を思います。
昨日も記した通り岩略寺城にオーソドックスなコースで向かえばまったく難儀はありません。
南曲輪の段丘直下まで車で約800m進むことができます。それなりの駐車場らしきスペースも用意されているくらいお手軽なのでした。
ただ昨日画像の③林道入口に獣止めの大層なフェンスがありますので、それを開閉しながら車を走らせることになります。
大規模な遺構でなく土塁はかにり浸食されていますが、形状は確認でき、まずは大手道に入ってからの大きな堀切にお迎えしてもらえます。
「三日月」と記されるとつい「え?」と武田の手?などと思いおこしますがこちらはただその形状がそのようになって見えるだけでしょうね。あとになって誰かが勝手に付けた名だと思いますが。
井戸曲輪が本曲輪に接続していますが、他にも井戸跡が複数ある城でした。
驚いたことに滅多にないことですが本曲輪でやはりお城好きの方と遭遇しました。人間と会うということは想定していませんでしたので驚きです。
当然にご挨拶となりますが、別れ際に双方「名前だけでも」と名のりあいました。
小牧から来られた「丹羽」さんという方でおもわずニヤリとしてしまいました。「織田の手の者か・・・」です。
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