昨日の午後は史跡研究会の会合がありました。
参加者は最近の傾向、4人だけでしたが歴史の話少々と情報交換そしてスマホ操作のアレコレでした。
私も含めて皆さん爺々(ジジー)の部類で各々のスマホの操作難儀とその修正に時間を割いてしまいました。
終いには「ドコモ行ってくる」と締めの声が上がるほど当座の4人の知恵では及ぶことではありませんでした。
私もそうですが、タダの機械如きに振り回されまた「言うことをきいてくれない・・・」などとなると投げ捨てたくなるほど腹が立ちますからね。
その諦めの声にも「予約がないとダメかも」との指摘がありましたが、私は「(それは新規だろうから)携帯電話の不調について平身低頭にお願いすれば何とかしてくれるだろう」と私見を述べさせていただきました。
まぁ現場対応として柔軟に動けないようでしたら客を失いますからね。今の携帯市場は熾烈です。
夜間18時からは念仏メディテーション。
正式名称「沙汰day night 三昧」の今年第一回目でした。
コロナ蔓延の上、寒さひとしおの候「参加者ゼロ」でも驚かない状況でしたが全部で5名の参集がありました。
まったく恐縮するばかりで頭が下がります。
さて、先日は山中ドタバタからの子渡井の枡井について記しましたが、その井戸はたまたま出会った聖徳太子の遺構。
本命の「山城」はといえば岩略寺城でした。場所は音羽町長沢(旧地名)という地になります。
オーソドックスにその城に向かうのはまったく難儀なし。
国道一号線の長沢交差点から城のある正面の山(場所はこちら)に向かって進むだけ。
今はその名が通称で通っていますが地元では「御城山」「城山」、城郭大系では「長沢山城(ながさわさんじょう)」という名になります。
また地元では「山城」というカテゴリーで通っていますが城郭大系での紹介欄に「平山城」との記述。
やはり「山城」とあるのと「平山城」とではその響きの違い、規模の違いのイメージ差がありますので、其の「格下げは」一体何?と思うところ。
「中世城郭としては県内でも最大規模で遺構状態も完全に近い」という絶賛ですからね。
そもそも、そのような「山城」か「平山城」かのくくりなど無意味なことですからね。
ただ大系としてはその城のある山の標高が210mとさほど高くないこと、麓部の大手入口辺りから本丸までの距離が1㎞にも満たないというところ、そう評されても仕方ないかも知れません。
私からすればあの無意味な「搦手」方向からの登城体験と挫折がありましたので十分に「山城」の難攻を体験しました。
この城の築城年代を証する史料はなく、大雑把に土塁の形状と縄張りの方向が対今川を推測できるものとなっていて「桶狭間(永禄三1560)以降に家康とその配下の手によつて修築されたものではなかろうか」と締めています。
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