立てこもり事件で医師が亡くなった件、先日の大阪のクリニックの事件もそうですが、一言で医師(現場の困窮者対応者)が「社会の歪みの短絡の捌け口」にされているような気がします。
コロナパンデミックの社会もそうです。
「経済を停めない」ばかりの政策は結果、高齢者や健康弱者そして彼らを診療していかなければならない医療、介護者に強烈な負担をかけることになってしまいました。
机の前に座って、あのカラフルのバッジ(SDGs バッジ)の「付けてます感」を鼓舞(やった感以上の)するエライ皆さん、介護や医療の現場で自己の感染を防ぐべくリスク承知で馬車馬の如く働いている人たちに面と向かって言ってみろ・・・などと、いつもながら傍観している私が思うのはおかしなことでしょうかね。
さて、画像は本堂後堂の大櫃の中から出てきた刷り物。
瓦版でしょうか、発行年号は「文久三年」とありますがその内容は文久元年(1861)の皇女和宮の江戸くだりの図。
発見した時は数年前、道端に落ちているチリ紙の如くくしゃくしゃの虫食いの様で一旦はゴミ箱にポイしようと思ったくらい。
公武合体政策はその後の「無理」に繋がりましたからね。
そのまま櫃の中に放ってあったものをこのほど拾い返してアイロンをかけてみました。
というのは先般NHKの番組でまったくそれと同じ図を登場させていたからで、拙寺の史料として復権させようと試みた次第。
この前代未聞の世界にも類のない「行列」があったという事実と街道大迷惑の大混乱(藤村の「夜明け前」)は特筆すべきものですからね。
まぁ詳細はウィキの「和宮」を参照していただくとして、しかしまぁあの長大行列を簡単に「東海道ではなく中山道を選択」という理が現代社会を生きる私など絶対にはかり知ることはできませんね。
島崎藤村もその小説の冒頭で「木曽路はすべて山の中である」でした。
単純に「輿を担ぐ身にもなってみろ」と思いますが、上等な着物をまとったうえ窮屈なハコの中に座りっぱなし・・・というのも地獄の苦しみを思います。
幕府の望んだこの婚姻行列は、ハッキリ言って無意味でしたね。
それを実現させるための多くの譲歩と抵抗勢力によって知らぬまに「攘夷」が「倒幕」にすり替わってしまいました。
以来、問題の「すり替え」論は今も政治家の常套手段ですね。
それも日本の伝統です。
よって「ちとせのいしずえ」の表題の通りを目論んだ幕府の意図は早々に瓦解したという皮肉。
この紙切れのもう一つの着眼点は、田沼玄蕃の名がしっかりと出ているところ。田沼意尊(田沼意次の曾孫)はその直前に若年寄
になったばかりですね。
彼は「机上」ではなく幕府のために東西を奔走していました。
幕府軍総督のお役で天狗党の乱の鎮圧に向かったり越前で武田耕雲斎を処刑しています。
③④宝塔は増上寺にて。
改葬時に発掘調査が行われたことでも著名な墓域。
そのうち皇族の墓であるというのも特筆的。通常は宮内庁管理となれば絶対にありえない話ですからね。
遺骨の「左手が欠損していた」の謎もまた・・・。
改葬については以前も記しましたがプリンスホテルとの力関係のためです。
コメントをお書きください