東京が1万人超え(11227)そして全国でも5万人超え。
大層な数字ですが、もうさほど驚きません。
予想では東京で2万近く行くよ・・・などと言っていた人もいましたし。
そもそもその状況は去年から散々に言われてきたことですからね。
高をくくって何事も対応を先延ばしにしていた楽観論蔓延の雰囲気でいた咎でしょうかね。
感染しても発症しない人もいるということでみなさん最近は平チャラの躰。
しかしそれはあくまでも「そんな人もいる」といことで酷い苦しみに陥っている人もいるワケで。
ウィルスの方からすれば「まだまだイキまっせぇ~」といった感じなのかも知れません。
昨晩あたりだと東京だけで「10万人」の声も出ていました。
まぁそうなることによって日本もニューヨークの如くの感染者数頭打ち、減少を待っているのでしょう。
みんなで感染すれば社会に免疫ができるという算段ですが、私自身はその喉の死ぬほどの痛みと、もしかしての後遺症等々まったく許容できませんね。
苦しい思いをするのは真っ平御免。
まぁその時は「おまかせ」ということではありますが。
昨日は波津区のイベントの中止の報について記しましたが拙寺も1月末に予定されていた2件の法事が中止になっています。
ウィルス蔓延の方はまだまだでしょうが寒さはそろそろピークアウトしてくれると見込んでどこかの近場の山の中でもほっつき歩きたいと考えています。
まごまごしていると乾季が終わってしまいますので。
境内もやりたいこと山積ですべて気分次第かつ「あなたまかせ」(一茶)の日々ですが。
さて、四十九院唯念寺。
武佐に居た拙寺初代権七(釋浄了)が江州を捨てて遠州へ辿った時期は永禄元年(1558)と推測していますが、その頃と言えば信長はま
まだ清州に居て、桶狭間の件もその二年後の永禄三年の話ですからその頃の近江はまだそこそこ平和。
よって住処を変えたその理由を信長のせいというのは言い過ぎですね。
果たして権七は本格的移住ではなく、実はまだ家族を近江に残しての旅路程度の遠州への行程だったのかも知れません。
それはそれでその理由などを知りたいとは思いますが。
時間軸として信長の上洛、箕作城を攻略して六角承禎を観音寺城から追い払ったのが永禄十一年(1568)と信長が近江に覇を唱えつつあったのがその(権七が遠州に来た)10年後のことですからね。
そして石山の合戦となるのは元亀元年(1570)から天正八年(1580)。顕如の檄によって摂津に赴くわけですが権七がその間ずっと本願寺に籠りっきりのはずもなく摂津-近江-遠州の往来があったことでしょう。
顕如の檄は対信長徹底抗戦のための至急の報。できれば人数を集めて石山本願寺への集合と、各地でも信長に対して蜂起せよの真宗門徒たちへの触れですね。
各寺院に発せられた顕如の檄は門徒衆に行き渡り寺院レベルで本願寺へ入る人集めと兵糧の手配で大わらわになったことが想像できます。
唯念寺にもその顕如の檄(「信長近年爰許へたいし 度々難題、いまに其煩やまず。此砌、門下之輩、寸志を励まさば、仏法興隆たるべし」「以密使令進達候、近日仏敵信長大群もて石山の御営へ押し寄候趣、注進これあり、雖有防戦用意、為徴力敵対がたし、御宗旨の退転此時と、実に歎わ敷存候云々」)への反応の件、その歴史が伝わっています。
私は以前から戦闘状態にある主戦場になっていない敵方が掌握している領内を通過する場合、常識的にそうやすやすと通過できるはずがないと考えます。
そのような場合、できるだけ見え見えの戦闘を意識させない、集団での移動を避ける、目立たず単独の行動を心がけ、集合場所を本願寺にするなどの取り決めが必要だったかと思います。
当時の近江といえば夥しいほどの関が設けられていたといいますし、信長の勢力もそういった関に常駐していたはずです。
元亀元年(1470)こちらの唯念寺にも本願寺の下間家(頼廉・頼竜・仲之等)より急使があって、ここぞとばかりに寺に300余名が集まって本願寺に向かいました。
その行程、その寺の目と鼻の先、観音寺城下を通過中に城内からの急襲を受けてその半数以上が討ち取られています。
寺では護法のための殉教と伝わっていますが、信長方の城となった観音寺下を六字の名号の旗印などを掲げたとして大挙行進していればそうなることもあり得る・・・などと思うところです。
摂津へ向かうに一番の近道であることは間違いありませんが、もう少し違うコースの選択ができなかったものかと。甘く見ていたのかも知れません。
顕如の出した討死した巧空と門徒への弔いの書が遺ります。
殉教吊状(「吊」は「弔」の俗字)
「去頃 功空御坊并門徒
数多途中不慮之
討死之義 為法義忠節
不浅 右神妙之働令
感候 貴坊義 追而格別之
可及沙汰候也
あなかしこ ~~ 十二月五日 顕如 花押
照光坊 殿」
そして教如の寺院免許状も。その件の十七回忌にも教如は書面を発しています。
「寺号免許状
其方儀従
実門主已来有大功故更
唯念寺と
申送候仍坊号と可相兼候
尤耆老と免許揮筆候也
天正八庚辰十二月五日裁四月十九日釈教如 花押
江州犬上郡甲良庄
四十九院顕佐院主」
観音寺城はあの安土城と同じ山系にあって観音寺城各櫓からは周辺の平地での目立った行軍は一目で判別できるはず。
容易く大坂石山本願寺への合力を許容してくれるとは思えませんね。
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