當麻山無量光寺 徳本念仏塔と異色のカタチ

お隣の国、韓国のコロナの感染者数には驚きですね。

感染者数で更新(日に5000人超え)すれば重傷者も死者も過去の記録を塗り替えているとのこと。

私も日本国内でこれだけの収束を見せている中、それ自体驚いているところ。

ここへきて隣国の病床逼迫には「一体日本と何が違う」のだろうと疑問が起こるばかりです。

 

韓国の世論はやはりその日本との違いについて注目されているようで、八つ当たりなのか知りませんが、「日本は感染者数をゴマ化しているに決まっている」の如くの指摘があって世論も相当に混乱しているという感ありますね。

 

 

 

昨日は奥方と旧大東の横須賀城近くでうろついて、ついでに近くの食品スーパーに同行しました。

そんな時、大抵の場合は「車で待っている」というところですが、その日はカートを押しながら嫌々奥方の後を付いて歩きました。

 

 

例の「間抜け」とまたも奥方から浴びせられたのはレジ清算のあと。

私はこのコロナ世界にあって外出時は必ず消毒用アルコールを持って歩くという習慣が身に付いていますが、その時は詰め替えた携帯用のボトルを持参するのを忘れていました。

よって車に常設している(夏場は劣化が早いので撤去しています)市販の大きなボトルを持ってその店に入りました。

 

店に入れば品物を手に取ることがありますが、その度に手の消毒。そして消毒が終わると買い物カゴに。

そのパターンで色々詰め込んだカゴの中にそのアルコールスプレーは埋もれていきました。

 

レジ清算が終わり、品物を持参した袋に入れている際、「おい!まさか・・・」と声をあげながら、「コレはいったい・・・」とレシートを確認し出しました。

すると・・・その例の言葉が出たというところです。

要は私物を商品としてカウントされてしまったということなのですが、奥方は「あれだけ首から下げておきなさい」と・・・またも叱られました。

 

私はレジの段階でコレは商品ではないと気づいてくれるべきと思いますがね。

半分以上使用済み、明らかに新品とは思えないのに・・・機械的に手に取ったものをバーコードスキャナーに照らすだけというレジ操作では気づきにくいかもしれませんが。

まぁ昨日やらかした「余計なトラブル」も私はグーの音も出ませんでした。

勿論払い戻ししていただきましたがレジ混乱を惹起させていました。気持ちとしては・・・車で待たせない奥方がワルイ !

 

さて、當麻山無量光寺(こちら こちら)でしたがそのお寺の境内には句碑やら色々な石塔にお目にかかることができます。

特に名号碑は有難く拝見させていただきますが、なかなかユニークな「六字」の石碑に目が止まりました。

 

それが「徳本念仏塔」とのこと。

一見してかなり古そうな感じがして、クラックが入って補強材で固められていますが時代的にはそれほどでもなし(文化十四)。

面白さは字体ですね。

名号については無数の個性による字体がありますが、悪くないですね。

きっとこっそりと拓本を取ったりする人も現れているのでは・・・

古そうに見える黒っぽさ・・・大いに考えられます。

最近は「拓本禁止」の言葉も見受けられますからやはり「こっそり」でしょうね。

 

⑤は数ある句碑の中の一つ。

私は日没の「夕日に父と母」というのが定番になっていますがその句には鐘を撞いてのこと。

「 當麻山無量光寺 

   われは来て 鐘をつくなり 父ははおもいて 」

 

私の場合で言えば「頻度」ということでは鐘も撞きはしますがやはり夕日のオレンジ色に出あうことの方が多いものです。

 

そして最後の画像。

当流には庚申塔、庚申塚の類はまずありません。

そもそもそれは寺や神社にあるものではなく今も主に道端に見受けられるのが常ですが明治期になってから多くのその類のものが整理され、中には引き取り手として寺の境内がよろしいという発想から、持ち込まれたものというのがその経緯かと。

もとは道教思想からのもので仏教の教えにはまったく関係ナシ。

私も各地で石塔といえば立ち止まりますが、その「庚申」という文字には一気に興ざめ、何事も無かったように立ち去るというパターンです。

 

しかしこの画像にはその「庚申」の文字は見えません。

庚申塚の判別にあと二つほど。

庚申の「申-サル」だけに何故か「三猿」追加、本体には「青面金剛」なる浄土経典には見られない像が肉彫りされていたりします。

 

その三種の庚申判別の理由の一つ、「三猿」にはその圧倒的判別材料になりますが、その上部の像は阿弥陀如来の様。

 

そもそもの庚申塔が寺にあるものではなく、三猿も浄土系の寺にあまり関係のないような・・・しかし阿弥陀如来というのであれば一体何?という疑問も。

近くの道端から持ち込まれたというのなら阿弥陀さんのワケないですからね。まぁ色々な思想が混同、都合次第、マッチングしたということかも。

 

庚申信仰はいわゆる「朝までパーティ」肯定思想。

要は庶民の数少ない楽しみの一つなのでしょうがそれを信じたことにしてのドンちゃん騒ぎを催す大義でしょう。

 

まぁ阿弥陀さんならば「飲み会」も許容しましょうがやはり「三猿」はどう考えてもマッチングせず。正反対ですからね。時宗ならでは・・・?

結論は・・・よくわかりません。