昨日の法要は当地快晴無風ながら本堂は石油ストーブの3台稼働とあいなりました。
開式ギリギリまで皆さんは駐車場の車で待機していたようでした。まぁ普通に冷えましたが・・・
しかしまだまだ本堂の寒さは序の口、厳寒期の息の白さにはまだまだ。
今シーズンでは一番冷えた本堂でしたので、「コート類着たままOK」を初めて申し添えました。
やはりその言葉には皆さんほっとした顔を見せます。
本堂は日差しのある外部より気温が数度下がるいわゆる「底冷え」の間ですからその無作法は仏も了承済でしょう。
当日は親鸞聖人の命日(報恩講)と重なりましたのでその辺りのお話もさせていただきましたが、先般もブログでも記しました通り昨今はコロナ蔓延対策の一つとしてライブ配信をやってます・・・などなど。
すると墓参りの際に初めて分かったのですが「実は法要の様子は東京の娘にライブ配信していました・・・墓参りまで・・・」と。
「参加したいが・・・ちょっと・・・」ということだったようです。道理で法要前から法要中まで携帯電話を操作する音が出ていたというワケです。
世の中変わりましたね。誰でも簡単に画像をライブで送信できてしまうなんて・・・
午後からは翌日の49日納骨法要のために、事前に墓地を開けての確認作業を。昨日の境内作業のメインとなりますが奥方は「今日は石屋さん・・・」。
やれる範囲で手と口を出させていただいています。
遠方からの来訪となり「どうしたものか・・・」と相談を受けていましたが石屋さんに依頼するまでもないと私が判断。
小さなノミと金づち、大き目ソフトハンマーを持って線香入れの石を外してみました。
尚、納骨という一大イベントはなにしろ事前にその遺骨がカンタンに納骨できるかということが最大のネックとなりますので事前の確認は大事。
新しい墓石の場合はその辺りの配慮が行き届いており、さっと石の蓋を外す程度でできるようになっていますが、古いものは最悪一番上の「竿」と呼ばれる大きな墓石から順々に外すという大仕事になる可能性もあります。
まだまだ境内にはその手の墓石がありますが、まずそれは施主の仕事です。
しかし今回は事情が重なって「私が見てみます」ということになりました。
以前、法要が終わった後「3人がかり」で何とか納骨したこともありましたが、今風の大きな石でしたら到底人力では歯が立ちません。何しろ危険。
今回は主要なモルタル部分を軽くハツッてからソフトハンマーで左右から叩いてみればスンナリその焼香鉢兼納骨室の入口は開いてくれました。
すると遺骨はいっぱいいっぱいに積み重なって下部に埋められた壺の上まで溢れかえっていました。
何とか「あと一人分」のスペースを確保しようと、前回に入った遺骨が布袋に入って納められていましたのでそれを取り出して容器にあけて乾燥。
翌日一緒に納めれば「何とかなる」といったところまで用意ができました。
納骨が済んで皆さんがお帰りになったらモルタルをこねて目地に入れればOKです。
尚その仕事はケーキ作りの仕上げにも似ていますので奥方の仕事。
それはとても簡単な仕事なのです。
かぶれ防止用にビニール手袋などをして(私がやるなら軍手程度)紙コップ等に適宜水で溶いたモルタルを目地に摺りこんでから、乾かないうちにかたく絞った濡れ雑巾で拭う。ただそれだけです。
以前にも記したことがあったと思いますが檀家さんで2件ばかり、その作業を防水性を上げようとシリコンで行う人がかつてありました。私の知らないうちにやられたことですので口出し無用です。
それは完全にNGになりますね。それも最悪の。
シリコンが両面ガッチリくっついて次回それを取り外す時に相当苦労することになります。
モルタル利用の接着はその世界の当然アイテム。
それなら僅かなクラックを入れればソフトハンマーで左右から叩くだけで外せるようになります。
逆にシリコンを充填してしまうと、今度それを開ける際にはカッターを使って悪戦苦闘することになりましょう。人に任せれば工数はかなりかかって出費も増すかも知れません。
あり得ないくらい作業効率が悪くなるということですね。充填剤は・・・。
二度と開けないというのなら別ですがね。
さて、昨日の小田原城三の丸土塁の続き。
その土塁についてのグーグルからの航空画像がわかりやすいと思いカットしてみました。
緑色のラインがはっきりわかります。
土塁は空堀とセットの掻揚土塁というのがまずは当たり前。
「当たり前」というのは、穴を掘った土は掘れば掘るほどうず高く重なって、自然と堤ができてしまうというもの。
それが掻揚土塁です。
小田原駅前東口、メインロータリーの駅側に「揚土」なる石票が立っています。
それがやはり小田原城の三の丸谷津口門土塁があったというもの。
開発があれば土塁は空堀にそのまま埋め戻されてうまい具合に平地になってしまいますが、昨日記した土塁がこれまで残った理由は空堀を埋める土をどちらかの土を持ってきたか近くの他の起伏を削平したか・・・でしょうね。
尚、「谷津」という地名は西口から北側、以前でいえばかつてあった競馬場あたり。
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