小田原北条の北の要 河村城から秋の景色

予定通り朝から連日の穴掘りの続き。

元栓のバルブを止め、溝に溜まった水を排水してからの仕事でした。

おかげさまで昼前に目的の水道管を発見。

苦労した分大いにハッピーな気分になりました。

よって仕事は午前でおしまい。バルブを開いて水道管の購入に走りました。

 

管の方向から見て、今考えればまぁ納得できる場所ですが発見がここまで遅れたのは・・・

漏水した水が溜まるために堰を作って掘る箇所を3つ程度に分けていたからです。

要はその10㎝程度の堰の真下に配管されていたということ。

その件、当初から「まさか」と頭の中にありましたが、何事もそのようなものですね。

少しずれていればこれまで掘ることはなかったのですが。

一番最初に掘りだしたスグ近く。

 

あとは一昨日発見した水屋の水道管へ排水溝の底を這わせて繋げるだけとなりましたが、折角掘った溝をどうするか思案のしどころ。

新たに排水溝を設置してグレーチングを置いたとしたら数万円かかりますし工事に時間が・・・奥方に打診するも即却下。

そう水がたまる場所でもないですからね。

 

さて、先週の晴れの特異日の11日、小田原への墓参りついでに周辺をブラついたことを記しましたが、午前の早い時間といえば、東名高速上りの足柄SAのスマートインターを降りました。

「御殿場にはコシヒカリ」というのは最近やたらと耳にしていましたが、私などはそれすらも知りませんでしたので「へ~え」とむしろそれに気づかされた次第。

ちなみに私の御殿場のイメージは御殿場線の繋がる相良に匹敵する不便な場所(これは小田原に住まっていたため)、自衛隊の基地、御殿場アウトレットくらい。そして産業、物産は何・・・と言われたら答えることはできませんでしたね。

 

そのスマートインターはアウトレット用に増設されたようですが私どもは小山町-山北経由で小田原に向かっていました。

松田まで行ってしまうのは行き過ぎになります。

山北といえば谷峨という酒匂川の上流域を思います。

小学校の頃はそちらにまで自転車で出張って貝の化石取りに励んだ思い出がありますし、家族で玄倉川沿いの崖の化石探しにも行っています。

 

その246号線(渋谷あたりでは青山通りと言います・・・)の浅間山のトンネルを潜れば御殿場線山北駅や役場あたりの山北町中心域。

そこいらを南へ向かえば小田原方面へ辿る道となりますが246号を右折してスグ左手に川村小学校が。

そしてまた少々行った右手に河村城の登城口の看板がありますが今回はそちらに立ち寄りました。

 

相良・御前崎の檀家さんで出自は同じにして明治期に「河原崎-川原崎」とその字面を分けた名がありましたが、この「川村と河村」もそれと同じようなもので古い方の呼び名「河」が近年になって「川」に変遷したというパターンでしょうね。

 

奥方の御殿場で降りるにあたって「何処行くの?」は当然にありましたが正直に「山城」などとは言えません。

私は「まぁ見晴らしのいい公園に車で行く」と。

その公園こそ「河村城址歴史公園」で、大手入口にはしっかり駐車場まで整備されるようになりました。

 

それだけ山北町が相当の気合を入れているのですが、神奈川県内の山城として初、県の指定史跡となっていますのでまず山城のくくりでは神奈川NO.1というところ(場所はこちら)。

まさにその山城として胸を張れるスケール。

湾曲して流れる酒匂川と皆瀬川を大外堀にした浅間山245mと高くはありませんがその地形と各遺構、相模湾から箱根外輪山、そして少しばかりの富士山が望めます。

奥方も怪訝そうな顔から「お弁当を持ってきたら最高」とまで。

 

この城河村城こそ元はといえば波多野氏系河村氏の本拠地から始まります。

先日は私の住まった地の「おはなばた」の松田氏邸址と河村氏の件記しましたが、その河村氏の大元がこちら山北だったというわけです。

 

画像⑥~⑨が城址東側南面から見た図。

⑥が大井松田インターから国府津松田線の断層帯。

③画像は大手の空堀に掛かる橋を渡ってスグの西方の景色ですが箱根外輪山の背後にかすかに白い線が・・・富士山は城址最奥の北曲輪からも望むことができます。ちょっぴりですが。

最後の画像は昨日発見に至った水道管。