500年前に松を植えたのは 松田と河村の関係

最近の法要につきものとなったのが、お茶。

参拝者が見えない場所にボトルを置いて、経典読誦のインターバルにこっそりと喉の乾燥に対応するようになりました。

奥方は「もう少し発声のトーンを落とせ」と注進しますが、微弱な声からは「ヤル気のなさ」の空気を堂内に広げてしまいそうな気がしますので、それだけは避けたいところ。

 

重低音、耳を澄ましながらの読経も集中とメディテーション主体のスタンスで同座することは悪くはないのですが、私自身の声の質からしてそれは無理。

かすれ声質の私が低音を持続することはできません。

正信偈の同朋奉讃(草四句目下)の発声の基本は「『ラ音』である」と若い頃にどちらかで教わったこともありますが私のその拝読は悪質の「かすれ声」を超えて発するための音量と高さにポイントとを置くことだと勝手に解釈して実践。

ということで年のせいもあるのでしょうが、声は小さくできない読誦の継続には適宜喉に潤いを与えることがベストとなります。最近は無性に咳き込みそうになったりして・・・変調もあります。

 

ジジイになったから仕方ない・・・とはいうものの一応は傍から見れば「専門職」ですからね。

維持のための喉ケアは不可欠ですがお茶を脇に置くというのはその最後の手段というわけです。

 

さて、昨日の平成輔の墓と私が住んでいた場所は小田原市南町三丁目で同一町内。中学校一年までそこいら辺りを「縄張り」にしていましたが中2になってからこちら相良中学にお世話になったのでした。

 

その平成輔の墓と私の家の間、どちらかと言えば成輔の墓に近い方になりますが、町内では当時有名な政治家、河村勝氏の自宅がありました。

民社党の衆議院議員でバックボーンが旧国鉄。

同級生の親が国鉄に居たため何かある度に父母のところに「応援タノム」の依頼があったことを覚えています。

 

昨日も記したあの新幹線ビルの旧オーナー氏がうまいことその手の仕事に食い込めたのは・・・もしかして今般一時期飛ぶ鳥を落とすような勢いにも見えて急失速してしまったあの河野氏の親父または祖父の時代からだという噂もあるようですがその河野と河村の「河」付きは神奈川西部の代表的な政治家でしたね。

 

私の親近感としては勿論ご近所の河村氏の方でしたが、数年前にその家の前を懐かしんで通過した際に表札が掛かっていたことを確認しています。

ところが今回、そちらを見るとガラリと様子が一変、新築の家が2棟建っていました。

河村氏が亡くなって20年以上経ていることもありますが私は「遂に河村家は小田原を退去してしまったのか・・・」と奥方に。第一印象の勝手な推測ですが・・・ 

 

画像⑤は以前拙ブログでup済の「おはなばた」の標です。

北条家家臣松田氏屋敷跡を示しています(松田氏      )。

この「おはなばた」に生まれ育った私の脳内もまさにそれであったか・・・と奥方は毎度合点。今更気づいても仕方なし。

この石標から20m程度の場所に当時私ども一家が住まった家がありました。家族4人と今、吉祥寺にいる叔父もそちらから東京の大学へ通学していました。

 

実はその北条関りの松田氏と河村氏の祖は遠縁にあたる家系と思われます。もっとも両家とも小田原に北条が浸食する以前からの地元の有力家系でしたが。

いつ頃からその河村家がそちらにいらしたか不明ですが、松田屋敷の南方一角に河村氏が居を構えていたというのは関連性からいって大いにあり得ることだと考えられます。

 

昨日はあの松の大木の「500年以上前」について記しましたが松田氏が屋敷の南の平成輔の墓地に「松」を植えて愛でたというこじつけをしたくなりました。

 

画像①~④は同じ富士川あたりから見た午前と夕方の富士山。

①は助手席から奥方が撮りました。

まだまだ晴れの日はつづきそう。遊びに行くなら今か・・・

私は水道管堀りです。

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (月曜日, 15 11月 2021 16:51)

    屋根・水道と漏水対策お疲れ様です。 脚立を使わなくとも十二分にご留意ください。
    毎日拝読して松田さんの関係を少しづつ理解してきました。
    ご存知と思いますが、三島には北条軍・豊臣軍呉越同舟で供養されていますが、戦死した間宮豊前守の娘於久が家康側室の関係により、宗閑寺の本寺が静岡市葵区鷹匠2の華陽院です。
    華陽院には源応尼・於久以外に東儀秀樹の先祖(幕臣)・駿府城代などの墓石もあります。
    既載の場合は悪しからず!

  • #2

    今井一光 (月曜日, 15 11月 2021 21:23)

    ありがとうございます。
    間宮の墓碑に「開基」とありましたので宗閑寺が華陽院の末寺というのは思ってもいませんでした。
    華陽院は駅前の駐車場に停めての駿府城界隈の散策の途中になりますので当家奥方様とも何度も立ち寄らせていただいています。
    源応尼の墓については記していましたがお久はまだでした。

    から繁華街色