午後からの法事につき午前はちょこっと前日の穴っ堀りの続き。水道管探しです。
水道管の漏れがある場所はコンクリ舗装の下ですが、その入口と出口の管を見つけるために何箇所か掘ってみましたがどこにも見当たらず。
水道管探しは力任せに深堀りすれば、水道管の破裂を招きますので慎重です。
こうなったら2か所を探すのはバカバカしく思って、兎に角元栓に近い方のみを探し出しその管を止めることが先決と。
そこで新たに近場の水道管から1本振って、パイプを排水溝の中に這わせて新たに水屋に水道管を立ち上げるという迂回作戦。
そうすれば無理にコンクリにハツリを入れることもなし。
水道管を切ったり貼ったりの手間は当然にありますが、ストレートに配管する必要はまったくないですからね。
週明けからまた穴掘り、水道管探しに励むことにします。
奥方はその手の仕事の手伝いをしたくないようで、「業者に投げろ」とはいいますが、やることと言えば同じこと、却って面倒なこともたくさんあります(境内がゴチャゴチャ)。
そして1日がおしまい。
この晴れ続きの夕刻、雲のない西の端の太陽は眩いこと眩いこと・・・
車を西向きに走らせば、自然と口からでるのは南無阿弥陀仏の六字というのはお決まりですが前方を直視できず「超」がつくほど危ないものがありますね。法話は阿弥陀の「光」のお話だっただけに・・・
事故が起こっても不思議ではありません。
東方向からの帰り途のその時間帯は強烈、先日の小田原からの帰路もそうでした。
スッキリした乾燥期の好天はすがすがしく快適で、文句を言うなどは、とんでもない話ですが・・・
さて、先日の小田原行脚で奥方と二人して「変わってしまった」と驚いていたことを記しましたが、こちらの墓域も私の思う昔の雰囲気とは打って変わっていました。
今回はいつもの駅周辺だけではなく昔住まっていた辺りにも足を伸ばしました。
画像の墓地は私が小学校の頃この辺りで缶蹴りや爆竹遊びをしていた場所です。お寺や墓場と言えばそれらの遊びは定番ですからね。
時にロケット花火の「水平撃ち」などの無茶をやったものですがハッキリ言って他人様の迷惑など一瞬も思い浮かばなかった年齢でした。
大人たちもそんな小僧どもに怒るでもなくまさに鷹揚なものでしたね。
時代は変わりました。
その手の大バカ小僧は絶滅危惧種、私がお寺に入ったころには夏休みの蝉取り小僧すら見えなくなって男の子の遊びといえばゲーム機とカードのなんたらのみ。
大人たち、親たちはそれこそ喫緊の心配事というものはとりあえずは「ナイ」のでしょうがね。
こちらはいわゆる「平成輔の墓」となります(拙ブログ既出)。
私の住まっていた場所から南、住宅街を海岸方面に下っていく道すがらにありました。
小6か中学1年の私のファイルからの画像が③。
よく見ると左側に松の大木がありますが、今は枯れてありません。樹齢500年と私の手書きの文字が添えられていますが、いくら何でもその数字は疑わしいかとも思いました。
驚いたのは現在その祠がブルーシートで覆われていて崩落の危険ありとの掲示があること。
永劫、そのカタチたるものの維持はできないことは承知していますが、私を見守ってくれたその祠(墓石)が寿命を迎えつつあるとは感慨深いものがあります。
大正年間には発掘によって遺骨の出現もあったといいますから形状は祠ではありますが「墓」でよろしいかと。
修繕が済めば公開されるようですが、どう崩落の進行を抑えてお披露目されるのか・・・心配でもあり楽しみでもあります。
私の墓場放浪の原点でもありますからね。
墓域もかなりの改変があります。画像②の後方には母が懇意にしていたカメイ美容院があった場所。そちらも更地になっていました。
近くは小奇麗な家が建ち並び様相は変わりました。
④は栄田君子なる方の歌碑。
小田原市のサイトから平成輔についての記述を転記させていただきます。
「平成輔は、京都の公家で、本姓は平氏ですが、家が京都烏通りにあったので、烏丸成輔と称しました。
また、官位が正三参議であり、参議の唐の呼び名が宰相ということから、平宰相成輔とも呼ばれていました。
成輔は、御醍醐天皇の親任を受けて中興の仕事に加わり、鎌倉幕府の倒滅を計画したことが漏れて、六波羅探題(京都に置かれた鎌倉幕府の出張機関)に捕らえられ、鎌倉に護送される途中、元弘2年(1332)5月22日(成輔42歳)三河入道円重によって、早川の河口で殺害されました。
その事情は、太平記・増鏡・大日本史などに詳しく書かれています。当時、この場所に潮音寺という建ったばかりの大寺があったので、その境内に葬られたとおもわれますが、潮音寺は明治41年に報身寺に合併され、この墓所も報身寺の所有となりました。」
尚、「松」についても「樹齢500年以上」と記されてありましたのでそれが本当ならまさに松としては奇特な代物。ウィキによれば開発によって根を傷つけたことから枯れたとあります。
拙寺境内の当家墓域の背後にも松の大木がありましたがやはり枯れて今はなし。私の記憶には残っていますが。
松は杉と違って寿命が短いですからね。
早世した友人の家にも行って「線香でも・・・」とは思ったもののその母親も逝去の可能性が大いにあります。
家はまだありましたが表札が無かったため押しかけるのは止めにしました。
「忘れてないよ」と告げたかったのではありますが。
画像⑤は小田原駅西口。
左に曲がれば、ロータリーに例の伊勢宗瑞(北条早雲)の銅像が見られます。
そして右側、今熱海の土砂崩落事案でその名を久々に聞いた新幹線ビルディングのあった場所。
もっと昔はそこにバッティングセンター兼ゲームセンターがありました。
そこでは「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」が延々と。
ビートルズを覚えたのはそちらでした。
③画像含めそれらの写真ファイルを奥方に見せれば絶句。
「そんなバカ小僧がなんで墓場放浪を・・・」と。
「墓場こそハメをはずせる遊び場だが、すべてが私を黙って見届けてくれる」などと言っておきました。
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