相良御殿 正徳五年由緒書抜粋 不思議な墓碑

滅多に予定が合うことがない晴れの特異日の昨日、小田原へ墓参に参りました。

暖かく風もなし、半袖姿で一つだけついでの城歩きをしましたが

そこで撮った画像を息子に送れば「11月の恰好ではない」との指摘がありましたがまったく差し支えなし。

車の中の直射日光には「暑い」を連発。

 

ひょいと小田原の街区をフラつけば色々と変わってしまったところに気づいて奥方とあれもこれもと・・・その時間の経過に驚かされた一日でした。

 

驚きと感動と痛みは「生きている証」ですのでそういったご縁も有難いこととして受け入れるばかりですが、毎度祖母の家の菩提寺(本願寺派)に参る度に首を傾げることがあります。

①画像は母の弟の長男が4年ほど前に建碑したものでピカピカ。墓碑銘は「倶会一処」ですので真宗のそれの中では極めてオーソドックスのもので当山とは差異はナシ。

ところが法名碑に記された法名には信士と信女付き。

院号が頭に付くのはイイにしろさすがにその二文字にはいつも初めて見た如くに驚かされますね。

 

真宗の法名としてそれはムリがあるからです。

そもそも「それって戒名じゃね?・・・」というところがありますが、私の場合は未だかつてそれを法名の最後に付けたことは一切ありません。

それでは拙寺境内墓地にそれが無いのかと言えばそうは一概には言えないのです。

それは、まず「依頼があったから」ということでしょうがそもそも「いらないもの」としての認識が無かった(坊さんに)のだと思います。また他流と同様、戒名化させることによって文字数を増やし威厳を増幅しようという意図があったのかも知れませんね。

「門徒もの知らず」は私は非常に好きな文言ですが、同じ真宗の僧侶において「けしからん」と怒る人もいるようです。

よって他流と同様にしたいという気持ちもあったのでしょうかね。

 

親鸞の生き方を模倣するように連なっていくならば「もの知らず」は大いに笑いながら受け入れる言葉です。

当流は当流の教えということです。よって余計なもの(位)はイラナイ。

 

そして①画像の背後の五輪塔。

真宗寺院でも室町以前の古い五輪塔を安置する状況はあるにはありますが、この真新しいそれはまさにここ数年の間に建てられたものについては「?」です。

私の墓場放浪の基本は五輪塔と宝篋印塔であって勿論それらは「好みのカタチ」ではありますが、自防境内に御門徒さんがそのカタチの墓石を建てるような希望があったとしたら・・・私は断固として拒絶しますね。ありえません。

一言で言ってそれら墓石のイメージといえば基本は「大日如来」。元はといえば真言系です。

言うまでも無く我々真宗門徒は親鸞教徒、一向専念無量寿仏ですからね。

 

あと一つ。殆どの花立に供花がありません。いつもそれを感じます。勘違いかも知れませんが・・・なるほど墓石に花を添える習慣を、もし無くしたとしたら・・・ご門徒さんの供花の用意にお寺の花ガラ処理、双方とも手間が省けてすべてヨシ・・・?

新調した花立てはカタチだけ?

まさか・・・

本堂もガッチリ鍵が掛かっていてお参りもできないということだけはここ数十年変わりません。

まぁ他のお寺のことはどうでもいいこと。

 

さて、相良の「新町」の始まりといえば「家康鷹狩御殿」というのが相良の歴史通ならばどなたでも思うところですが、その件その推測根拠は・・・

 

そこのところ拙寺ではその辺りの事といえば祖父からの口伝もありますし、そのように記した書面が残っているわけで根拠レスではありません。

 

また、拙ブログの左側リンク先にて寛政譜の早引きサイトを提供していただいている「がつお氏」のページに慶長年録2」を追加しました。国立図書館のものです。 

「慶長15年正月9日に田中に鷹狩に出11日に相良に」の件。

4コマ目の最後の行から5コマ目最初です上記画像②③が記されています。適当にカットしてしまいましたのでご確認を。

また④⑤は正徳五年(1715)年の拙寺六代祐圓による拙寺由緒記。これも適当・・・

 

⑥は「絶対出る」と踏んで文字信号をONにしていた回の大河ドラマの家康の台詞です。

小和田先生が無理にその台詞を入れてもらったといいますがその根拠が慶長年録の記述ですね。

私のお宝映像ですのでNHKさん、大目に見てやってくださいな。

ちなみに私はしっかり視聴料を口座引き落としで支払っています。