「御断」は今とは少々意味が 御開祖五百回忌

昨日は奥方と二人揃ってお話に耳を傾ける日。

お話といってもぶっちゃけ愚痴・ボヤキの類ですがその方がお帰りになったのが2時間後。

午後の予定が消えてしまいましたが、まぁ「大いに結構」と顔を見合して合点したところ。

 

詳細をここに記せば、もしやブログを見られて「当家の事、あの家の事・・・」などと邪推されても具合が悪いことですからそれはムリですが、要は家庭内の事案。

私は「どこでもあることで ケセラセラで・・・」とは言いますがその内容は社会一般で言って「まずはナイ」ことであってその色々に気の毒をも感じますが、他家の内情に私の首を突っ込む余地はなし。

「しょうがないねぇ、時間による解決があればいいが・・・」程度の言葉のみでただただ聞き役に徹しました。

 

結論を言えば家庭内のことは社会の一片。

個というものの取り扱いの難しさというものをあらためて知る事になったのですが、この社会の人のありかたに疑問を思うばかりです。誰かのせい・・・を敢えて記せばやはり社会、そして人の劣化でしょうね。

 

「人・社会の劣化」を一言「イカレてる」と言い放つことはできますが、私もそう離れた場所にいるワケではなく、むしろ私自身がその類であるかも知れませんからね。俯瞰している場合ではありません。

親鸞さんの言葉を思い出しますね。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

ですね(→大谷大学コラム)。

 

18歳以下に全員にするか困窮者等所得制限して10万円ばら撒くかで揉めているようですが、私は前者の一律バラ撒きというものには疑問ですね。

仕事にも食事にもありつけないそして最悪住処も無いなどの人たち、真に困窮している人たちにまず最初に手を差し延べててただきたいものです。

住所で把握できないこと、財力の有無の判定が難しいことなど、それは面倒なこと。

それはそれは一律バラマキとなれば話が早いし、ラクなことですがね。

それを「やった感」というのです。

やるからには意味というものがなくてはね。ハッキリ言ってバラマキは意味がナイ。

 

昨日ももはや流行になったとでもいいましょうか、「電車の中で火をつける」などの暴挙の件がありました。

以前の事件を「私も」という具合に迎合して文字通り「狼煙をあげた」のですが、幸いにして大事故には繋がりませんでした。

 

先日も記しましたように人の行動というものはしばしば他人様の真似事であるとはいっても「個性」を発揮するものです。

「私ならこうする」などと変な自信をもって、またそれに確固たる意志などが伴って行為がグレードアップしたとすれば・・・

 

公共交通機関にその対応力はまだありません。

どう自身の安全を確保するか・・・逃れる術を知りません。

私はこの「イカれた社会」を遠い電車も走っていない場所から傍観しているだけですが。

 

各交通機関で警備・チェック・AIセンサー・カメラ等におカネをかけていく他に安心を提供する術はないでしょうね。

そういった安全面への配慮も国のインフラの一つなのですが。

バラマキをやめて、今「死にたい・・・」(昨日の事件でもそう言っていたそう)という人にその手の短慮を起こす前に、どう対応していくのか、バクハツする心をどう沈静化するのか、その歪んだ発想を治めることに面と向かって対峙して欲しいものです。

社会の劣化というといかにも抽象的ですが、それは政治の腐敗はじめ、おかしな施策もあることをお忘れなく。

 

さて、本日も2~3日前に出てきた古文書を。

主題は「以書付御断申上候」で宝暦十年(1760)の四月のもの。

その裏面に「下書キ」とありました。

叔父が言うには正副2枚記すものだが役所に出すだけに余計に下書きを記していたのだろうと。

下書きだから「残ったのだろう」ということ。

 

タイトルの読みは「かきつけをもっておんことわりもうしあげそうろう」ですが「御断」というと現代風に受け取れば拒絶の感覚。

しかしこの「御断」の「断る」とは事情説明のこと。

 

よって以下の件「やります」のでヨロシク!というところでしょうか。

 

それを続けて記せば・・・

 以書付御断申上候

一拙寺宗門之祖師五百回忌相当之事

 御座候依之来五月廿一日ゟ同廿八日迄

 法会執行仕度奉存候尤参詣茂

 可有御座候間右御断申上候以上

 宝暦十年  辰四月日      

            相良町  大澤寺  

                     御役所

 

<裏>

御開山様 五百回忌御法会執行

            御領主へ御断 下書キ

 

祖師親鸞さんの五百回忌の法要を開催するための「御断」。

祖師が亡くなった年を西暦で記せば1262年ですから

1760-1262で498年です。

数えで499年、法要を事前に早めに開催するというスタンスが見えて「500年直前」としてベストなタイミングでしょうか。

 

2023年には本山では大々的に生誕850年法要が開催されますが、それを見て、この件、末寺としても気合の入れ方が凄いものがあると感じます。

特に「五月二十一ゟ二十八日迄」と。

圧巻の八日間です。

 

宝暦十年(1760)は1758年に本多忠央が美濃国郡上の件で連座改易されて田沼意次の治世がはじまりつつある頃。

領主が改易の憂き目にあったということですから人々の思いは複雑だったでしょうね。まぁその次の田沼意次も失脚するハメにあうのですが。

 

そう考えれば相良の人々にガッカリがつきもののような気もしなくはなく現代の何とも言えぬ衰微感はその頃からずっと続いているのかもしれません。

石油で一旦盛り上がったものの枯れてしまいましたし・・・。

 

しかし寺の法要につき、その件事前にその開催を、お上に報告しておく必要があったということなどはやはり驚き。

尚、明暦十年は当山七代目釋祐信の時代。一橋治済から扶持米を貰っていた人ですね。