明治の拙寺由緒記(提出物控え)に三代目釋祐傳の実名

午前の法事で参集された方たち、異口同音。「寒い・・・」でした。

 

そうは激しいものではありませんでしたが、昨日記した「北西の風」の前兆か本堂の障子が音を発していました。

先週、本堂の扇風機を片付けたばかりでまさかイキナリ暖房器具を出そうなどとは頭が回りませんでしたね。

風邪などひかなければいいのですが・・・

私は相変わらず。真夏と変わらぬ法衣ですが、難をいえば足の裏から板の間からの冷たさが足袋ごしに伝わってきたくらい。

体は発声による発熱で維持されています。

 

夜間は風も強く大分冬のような音を響かせていました。

午後は古文書の箱を引っ張り出して面白そうなものをチェック。例によって駐車場の日向に腰を据えようと思いましたが薄っぺらい紙切れが主で、ちょっと気を許すと風によってどちらかに飛び去る気配。

よって車庫の中で時間を過ごしました。

古文書はハッキリ言って気持ちが悪い。よって家中にその箱たちはなるべく置かず、日光の下にて紫外線消毒をしつつ調査するというのがその方法になります。

何故かと言えば以前、拙寺の土蔵整理の際、夫婦で急激な体調不良(肺の疾患)に陥ったことがあり古文書の怖ろしさを身をもって承知しているからです。

 

数枚の紙きれを持ち入れ、アイロン掛け。シワ取りと雑菌退治の気休めです。

その後は叔母の家の解体工事の進捗状況を確認に行ってガッカリ。あと一日かかるとのこと。10/25から5日間の見積もりでしたが2週間近くかかってしまいました。

 

さて、その紙切れの一つ。これまで知らなかったことが一つ判明してその発見を喜びながら叔父に連絡した次第。

寺の沿革を記す書面の提出は各時代記されていてその控えがよく出てきます。

役所か本山といったところなのでしょうが、現在となるとそのような書面の提出義務はどちらにもありません。

画像の書面の内容からして明治も中期以降の書面ということが推測されます。

 

その中身でその他面白い記述といえば

①本山の所在地と名称

京都府山城国愛宕郡下京常葉町 真宗大谷派本願寺

②拙寺の所在

静岡県遠江国榛原郡相良町字波津百六十五番地

③御本尊阿弥陀さんが皇太子作。

これまでの江戸期のこの手の類のものも「皇太子」とありますがこちらは「聖徳太子」の意。

 

今ではそんな筈アルワケないというのが私どもの見解ですが、その手の誇らしい名はこちらに限ったことではありません。

そもそも三方原戦で没した成瀬藤蔵正義の菩提を弔うためにその妻「勒」釋尼妙意が家康から頂いたものを寺に寄進したというもので、当時からその皇太子作について伝承されていたというところ。「士族」吹聴は少々自慢げ。

④由緒は本楽寺を建てたところまで端折って概略を記していますが高天神兵乱の年の天正十九年というのは間違い

おそらく天正二年のことでしょうね。

⑤上記、「徳川方の本陣として差し上げ」のところまではこれまでの同類書面と同じですがここで初めて出てくることが二つ。

⑥大澤(大沢)の地名から大澤寺として改めたことは承知していますが「大澤園」とあります。「園」は相良の小字で「園」となればこれまでの須々木側の大沢というイメージとは異なって少々山側になります。

むしろ現在の般若寺の近くか原(台地)の上の可能性があるということです。

やはり以前も記した藤田覚先生と上がった鉢形山の線がいよいよ強くなりました。祖父はずっと「鉢形山」にあったと主張していましたし。

やはりかつて般若寺の住職からそちらの茶畑から瓦がたくさん出てきたことも聞いていました。

 

➆そして今回の大発見。

「成瀬傳助」の名です。その人こそ成瀬正義の四男(三男?)で勒(釋尼妙意)が連れてきた正義の末子ですね。

その人は拙寺住職三代目で過去帳には「釋祐傳」とあるだけでその名の記述はありませんでした。私が初めて目にしたということです。

因みにその母釋尼妙意の名「勒」は過去帳にありました。

 

その後家康が相良に鷹狩用の御殿を建てたというところまで記されています。

 

当家初代兼行は恰好いい響きがありますがその傳助・・・。

お笑い芸人「デン助」かスイカしか思い浮かばない。失礼。

 

 

 

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コメント: 8
  • #1

    野村庄右衞門幸正 (火曜日, 09 11月 2021 18:20)

    うらやましい発見ですね!まだまだ探せば出てきそうな予感がします。五家との関わりがわかりそうな史料はありそうで無さそう。。。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 09 11月 2021 18:45)

    ありがとうございます。
    石山本願寺から五家の祖の時代のものを探していますが残っているのは田沼以降ばかりのような・・・

  • #3

    がつお (水曜日, 10 11月 2021 11:55)

    家康の鷹狩について公文書館の慶長年録に載ってましたね
    リンク先の4コマ目慶長15年正月9日に田中に鷹狩に出て11日に相良に行ったとあります
    お寺とは関係ないですがそんな記事あったなあと思いだしたので

    慶長年録2
    https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/4396283

  • #4

    野村庄右衞門幸正 (水曜日, 10 11月 2021 12:21)

    田沼時代の史料でも何かあれば最高ですね!

  • #5

    今井一光 (水曜日, 10 11月 2021 19:58)

    がつお様 ありがとうございます。
    慶長年録のご紹介ありがとうございます。
    これを機会に「がつお氏の寛政譜索引 くずし字検索サイト」の項目に追加しました。
    寛政譜は便利に使わせていただいています。

  • #6

    今井一光 (水曜日, 10 11月 2021 20:04)

    野村庄右衞門幸正様 ありがとうございます。
    お寺だと何かとでてくるもので、どちらのお寺にも必ずあるものなのですが

    私もコレを発見するまでに、長い年月がかかっていますが管理者として
    まったく興味がなければただの紙屑でしょうね。
    相良の古い家でも大抵が(古文書はたくさんあったが)「捨てちゃった・・・」です。

  • #7

    野村庄右衞門幸正 (木曜日, 11 11月 2021 18:25)

    そうですよね。興味ない人から見たらただのゴミ�捨てたか火事で焼けたか。。。野村家は本家も分家も火事で結構無くなってしまったようで。
    無念!!

  • #8

    今井一光 (木曜日, 11 11月 2021 18:45)

    ありがとうございます。
    古い書面など現代では処分するのが普通ですからね。
    ただし火事だけは困ります。